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第四部 第二十五話 運命の小豆袋
信長軍は、越前に攻めいった。
朝倉家に拉致された織田家の御用商人、山田弥五郎、及び織田家家臣竹中半兵衛を救出することを名分として。それは朝倉家としては本当に預かり知らぬことであったが、ともあれ戦争は開始された。
信長軍は連戦連勝。
やがて三河からやってきた徳川家康の軍勢も加わり、朝倉家の軍団をことごとく蹴散らしていった。
織田徳川連合軍は、越前国を完全に攻め落とすと思われた。
……だが。
「ここに、北近江の浅井備前守が裏切る手はずになっておりますの」
越前の廃寺にて。
俺達の前で、未来はなにかに酔いしれるように言った。
「前に朝倉軍。後ろに浅井軍。ふたつの軍に挟み撃ちにされた織田徳川軍は、揃って壊滅、というわけです」
「そう簡単にいくものかよ」
俺は、未来を冷たい目で見つめながら告げる。
「そういうことにならないよう、俺は織田と浅井の仲を取り持ってきた。朝倉攻めの際には、織田は必ず浅井に使者を飛ばすようになっているし、それに織田と手を組むことで浅井には相当の金銭的利益が流れることになっていた。いまの織田を裏切ることで、浅井にとって得になることなど、なにもない……」
「ふふっ、お師匠様。その程度のこと、武田の殿様はとうに手を打っておりますわよ」
「なんだと?」
「織田から浅井に送られた使者など、とうに我が武田忍軍が刀のサビにしております。それに浅井に商いの利益をもたらしたことも逆効果……。我が武田の忍びはひそかに、浅井家中に間者を送り込みうわさを流したのです。
『なるほど織田と手を組めば利益は大きい。しかしここで織田信長を殺せば、織田家の有する利益をすべて、浅井家は手にすることができるのではないか?』と、このようにね。
……ふふっ、浅井家は織田家や神砲衆が持つ商圏の利潤を手にするためにも、同盟を破棄するというわけですわ」
「……バカな……! そんなことが、まさか――」
「と、言い切れますか? お師匠様……?」
「く――」
俺は絶句した。
そんなことはありえない。
と、断言することは俺にはできない。
知っているはずじゃないか。
この状況で、浅井長政が織田信長を裏切るのは、決定的な史実だということを。
「ともあれ織田信長はこれでおしまいですわ。お師匠様は、この廃寺の中で信長の最期という吉報を、じっとお待ちくださいませ。ふ、ふふ、ふふふふふっ、あははははっ……!」
高らかに笑う未来。
そんな彼女を睨みつけながら、俺はただ歯ぎしりしつつ――
彼女たちの顔を思い浮かべていた。――そう、誰よりも頼りになる妻たちのことを。
伊与。
カンナ。
頼む。俺以外に未来を知っているのはふたりだけだ。
織田家を、藤吉郎を、みんなを、なんとか救ってくれ……!!
山田弥五郎、朝倉家に捕まる!
弥五郎を助けるために、織田家、越前に進軍!
その情報を、岐阜にある神砲衆の屋敷で聞いた伊与とカンナは、顔面を蒼白にした。
「俊明の言う通りになってしまった。弾正忠さまが、朝倉領に攻め入るとは……」
「このままやったら、浅井家が裏切って織田軍が挟み撃ちにされるとよ。どうにかせんと!」
「俊明のことも、なんとかしたいが……。まさかあいつが、朝倉家に捕まるとは思わなかったがな」
さすがの伊与とカンナも、弥五郎の拉致に武田家が関わっているとは見抜けなかったのだが――ともあれ彼女たちは、越前のどこかにいるであろう弥五郎を、なんとかして助けようと考えた。そして浅井と朝倉に挟撃されるであろう織田軍も、救出しなければならない。しかしそのためにはどうすればいいのか?
「あたし、越前に行きたい。弥五郎をなんとかして助けな!」
「落ち着け、カンナ。その身体ではどうにもならないぞ」
膨らんできたカンナのお腹を、いたわるように見つめながら伊与は言う。
「いずれにしても、いまの私たちにできることは少ない。俊明がどこにいるのかも分からないし、織田家を救うにしても、どうすればいいのか」
伊与の言葉を受けて、カンナはむっつりと黙り込んだ。
そう、自分たちにできることはあまりにも少ないのだ。
例えば織田家を助けるにしてもどういう手を打てばいいのか? 越前にいる信長に、浅井が裏切ります、とでも知らせればいいのか? それを信長が信じてくれるのか?
なにしろ浅井長政は、『まだ裏切ってはいない』のだ。
裏切ることは、未来人の弥五郎と、その妻の伊与とカンナしか知らない史実なのだ。
しかも、もしかしたら長政は『裏切らないかもしれない』。弥五郎は、浅井が織田を裏切らないようにさまざまな策を講じた。その結果、歴史が変わって浅井家が裏切らなかったとしたら……。その場合、『浅井が裏切る』という虚報を、信長に届けることになってしまう。
「弾正忠さまが、浅井の動きに気を配ってくれたらええんよね……?」
カンナがぽつりと言った。
「弾正忠さまが、それとなく浅井の動きを確認してくれたら。そして越前を攻撃しつつも撤退のことも考えるようにしてくれたら……」
「それはそうだが、そう都合よく考えてくれる方法があるか? それも直に対面してではなく、遠い岐阜からそんな、弾正忠さまを動かすような策など」
伊与は、うめくように言う。
「そもそも、浅井が裏切っているとなれば、越前に使者を飛ばしたり、文を送ることも容易ではあるまい。どうやって越前の織田軍に連絡をするのか」
彼女の考えは別の意味でも的を射ていた。
未来の放った武田忍者が、北近江各地に潜んでいるのだ。伊与たちが越前の信長に使者を出すことは困難であった。文を出しても越前には届かない。
「……これは賭けになるんやけど」
カンナは、美しい碧眼を曇らせながら、
「馬借(運送業者)を金で雇ったらどうやろか。織田家とも神砲衆とも縁がない、雇われの馬借よ。それなら浅井家に見つかっても斬られたりはせんやろうし」
「馬借に文を届けさせる気か? しかし浅井家に捕まって、荷物を改められたら最後だぞ」
「文は届けんよ。荷物を届ける。越前の弾正忠さま宛てに……。浅井家に見つかっても、これなら問題なしと言われる荷物を。だけど弾正忠さまなら、あるいは藤吉郎さんなら、きっとこっちの意図に気付いてくれる。そういう荷物を……」
「そんな荷物があるのか?」
「…………」
カンナは黙する。
自分の考えが正しいのかどうか、分からなかった。
こういうとき、弥五郎が隣にいてくれたら、きっと考えをまとめてくれるのに。
そもそも、その弥五郎はどこにいるのか。越前にいるのか。生きて帰ってきてくれるだろうか。
(五右衛門も小一郎もおる……。弥五郎はきっと、無事でおってくれる)
カンナは仲間を信じた。弥五郎を信じた。
その上で、いま自分のやるべきことは、織田家の窮地を救うことだと確信した。
「伊与。馬借の手配をお願いできる? それと荷物も……」
「あ、ああ。それはいいが、どんな荷物を届けるのだ?」
伊与の疑問に、カンナは数秒思案したあと、――回答した。
織田信長率いる軍勢は、越前にて快進撃を続けている。
その織田の本陣に、奇妙な届け物が届いたのは、1570年(元亀元年)4月28日のことだった。
送り主は不明。
岐阜の馬借が、北近江の浅井領を抜けてやってきたのだが、北近江の方角から来た届け物なので、、当初は「浅井家のお市様から、戦勝の祝いが届いたのでは」と陣中の者たちは語り合った。
「市が祝いを届けたか。けなげなことよ。して、中身はなんじゃ」
信長が問う。
すると、荷物を受け取った前田利家は、ちょっと首をひねりながら、
「それが妙な代物っすわ。袋に入れられた小豆なんですよね。それも袋の両脇が縛ってある……」
「袋の両脇が?」
木下藤吉郎は、怪訝顔を作った。
信長も不思議がった。妹の市は、どうしてこんなものを送ってきたのか。
いや、待て。そもそもこれは市が送ってきたものなのか? 別の人物が、別の意図をもってこの小豆を送ってきたのでは。それも袋の両脇を縛る。片方ではなく両脇。これにはきっと、なにか意味が――
「ッ!」
「まさか……!」
顔色を変えたのは、信長と藤吉郎であった。
「よもや備前守、裏切ったか!?」
袋の両脇を縛ってある。
それはすなわち、袋のネズミということだ。
背後の浅井家が裏切り、挟み撃ちにされるということだ。そうではないか?
「……ありえぬ。なにかの間違いだ。備前守は我が義弟。それが裏切るなど……!」
「しかし弾正忠さま。もしもということがごぜえます。ここは一度、浅井の動きを調べるだけでも調べてみては!」
藤吉郎が叫ぶ。
信長は、なお信じられぬという顔であったが、しかしその頭脳は感情とは裏腹に明敏で、
「滝川。ただちに甲賀忍びを北近江に放て」
指示をくだした。
滝川一益も、もはや事態を理解していた。
首を縦に振り、本陣から指示を飛ばして配下の忍びを浅井領に向かわせる。
そして一刻も経たぬうちに判明した。
浅井長政の裏切りは、事実であった。
「馬鹿なことを!」
信長は吐き捨てるように言った。
「備前守、ここまで愚かな男であったか。いま余を裏切ってなんとするか!」
「ともあれ殿様。ここは一時退却するべきです。前に朝倉、後ろに浅井と囲まれては、いかに我々といえども不利です」
丹羽長秀が、冷静に言う。
信長は無言であった。長秀の言うことが正しいとは分かっていながらも、退却はしたくなかった。そもそも越前には山田弥五郎を救いに来た。その目的も果たせないまま、逃げ出すとは――
「おそれながら弾正忠さま!」
そのとき、雄叫びをあげた男がいる。
木下藤吉郎であった。
「丹羽さまの申される通り、織田軍はただちに退却なさるべきでごぜえます。このままでは今後の天下のために、この上なく大事な殿様のお命が失われます!」
「たわけ! そんなことは分かっておるわ! しかしここまで来て、山田を見捨てることができようか!」
「弥五郎は、わしが救います!」
「……なに?」
「わしが越前に残ります。そして弥五郎も必ず救ってまいります!」
藤吉郎は、唾をまき散らして叫んだ。
必死であった。本音であった。山田弥五郎とは黄金の誓いを立てあった盟友。ここで見捨てることなど決してできぬ。なぜならば――
「この木下藤吉郎、山田弥五郎を命に代えても救いだし申す!」
なぜならば、男と男の誓いであるから。
藤吉郎は拳を握り締めた。
待っておれ、弥五郎。
わしが汝を必ず助けるでよ!
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