4727人が本棚に入れています
本棚に追加
第四部 第二十八話 金ヶ崎の退き口(前編)
「ま、松下さん。なぜここに……?」
俺が驚愕していると、そこへわあっとときの声が響き渡って、一軍が朝倉勢へと襲いかかった。
見覚えがある。
葵の旗を掲げたその軍団は、
「徳川勢……!」
「そういうことだ」
松下さんは、大きくうなずいた。
「某は今川家滅亡後、領地を失いしばし浪人していたが、やがて徳川様に見い出されて仕官することに相成ったのさ」
「そういうことでしたか。松下さんは徳川様といっしょに越前に来ていたのですか」
「なんじゃ、それだったら織田軍の中におるわしに、声をかけてくださればよいのに」
藤吉郎が、苦笑いを浮かべながら言う。
「同盟軍とはいえ、徳川家中にいる某が、のこのこと織田の陣に遊びに行くわけにもいくまい。それに藤吉郎は、すでに織田家の部将……。連日いくさに明け暮れており、某が声をかける余裕さえなさそうだったゆえな」
「ははあ、左様でございますか」
「弥五郎も藤吉郎も、出世しているようでなによりだ」
松下さんは相変わらず、人の好い笑みを浮かべている。
そうこうしていると、朝倉勢は徳川軍によって蹴散らされた。……俺たちは助かったのだ!
「そこにいるのは、山田弥五郎どのと、木下藤吉郎どのではないか?」
聞き覚えのある声に、顔を向けると、そこには徳川家康と石川数正が立っていた。俺たちは慌てて平服しようとするが、
「戦場ゆえ土下座は無用。まして知らぬ仲でもあるまいによ」
家康は、若々しい笑みを浮かべ、
「山田弥五郎、そなたを助けに越前に来たつもりだが、いつの間に救助されていたのだ? ……まあ、いい。話はあとだ。織田殿は、すでに撤退されたと聞く。オレたちもさっさと退却するぞ」
「織田様の援軍として駆け付けたのに、先鋒の我々は置いてけぼりでござる。まったく織田様は逃げ足が早うございますな」
石川数正さんが、嫌味っぽく言った。
悪い人ではないのだが、時おり目上の人間でも容赦なく毒を吐くのがこのひとだ。若いころ、駿河で出会ったときからそうだった。……しかしそれにしても、そのセリフは棘がありすぎた。俺や藤吉郎の前で露骨に信長の悪口を言うとは――
そのとき家康が、そんな石川さんを「与七郎、口が過ぎるぞ」とたしなめた。
「織田どのが討ち死にでもしようものなら、織田家も、そして同盟している我ら徳川家も完全瓦解するよりほかはない。いまこの瞬間においては、どんな武将よりも、あるいは兵10000の命よりも、織田どのひとりの命運が大事なのだ。また織田どのはオレにとっても兄貴分であり、ひとりの男としても尊敬申し上げている。例えこのオレが戦場の屍と成り果てようと、織田どのひとりが生き延びることこそオレの望みである。ではないか、与七郎――」
「はっ、ごもっともでございます。この石川与七郎、考えが足りませなんだ」
その一言で、俺は家康と石川さんの優れた政治感覚を知った。
この場に、俺や藤吉郎、さらに明智光秀などといった織田方の人物がいることも見込んだ上で、石川さんはあえて信長をけなし、それを主君の家康がたしなめるという形をとって、徳川家にとって織田信長の命はなにより大事だ、そして徳川家は今後も織田を裏切らぬとアピールしているのだ。
浅井長政は裏切ったが、徳川家康は裏切らぬ。
戦場に置いてけぼりにされたとしても、徳川はなお織田と共にある。
それを織田家の俺たちにアピールすることが、家康の政治的判断なのだ。
「徳川さま。我が主、弾正忠との変わらぬ結束! この木下藤吉郎、まったくもって感涙の極みでごぜえます!」
藤吉郎が、ばかでかい声で言った。
さながら、この場の全員に織田と徳川はなお鉄血の同盟だと宣言するように。
「ともあれ、話はまた京に戻ってからにいたしましょう! 金ヶ崎に織田の殿軍である池田勝正どのがおられるはずゆえ、まずはそこまで退却ですわ!」
「もっとも! それでは全員、撤退するぞ!」
藤吉郎の大声に、家康は大きくうなずき采配を振るった。
敵陣の真ん中でも、しっかりと政治劇を行うあたりが、さすがの英傑どもだと俺は舌を巻いた。……さすがは秀吉と家康だ。
こうして俺たち8人は、徳川勢と合流して移動し、金ヶ崎の砦に辿り着いた。
移動中、俺は藤吉郎からことの次第を聞いて、万事頭の中で合点がいった。
織田軍に小豆を送ったのは、きっと伊与とカンナだ。事態を完全に把握できぬまま、しかし俺から先の史実を聞いていた彼女たちは、できる限り最善の策をうったのだ。織田軍に浅井の裏切りを匂わせる、という手を……!
さすが伊与とカンナだ。
できた女房たちだよ、まったく。
おかげで信長は敗死をまぬがれ撤退できた。
と同時に俺も藤吉郎に助けられた。こちらもさすがの相棒だぜ。
と、内心、家族と仲間に感謝していた俺だったが、しかし喜ぶのはまだ早かった。
俺たちはまだ、敵地の真っ只中、越前は金ヶ崎にいるのだ。狭い敦賀平野の北部にある山中に、ちんまりと存在する金ヶ崎砦には、先日、織田家に帰属した部将、池田勝正が詰めていたが、
「敵の数が多すぎる。朝倉と浅井、合わせて10000以上はやってくる。それを恐れて、こちらの兵は逃げるいっぽうじゃ」
彼は、そのように愚痴っぽく言った。
逃散する兵が多いのは、実は徳川軍も同じで、当初率いてきた兵の半数はすでに逃げてしまっているらしい。
「それではいま、我らに残された兵数は――」
「全軍合わせて700といったところか」
俺の問いかけに、池田勝正は苦い顔をして言った。
700対10000以上。これでは勝負にならない。さっさと逃げ出すより他はないが、
「アニキ、物見してきやした」
次郎兵衛が、軍議を行っている俺たちの前にすっと現れた。
「金ヶ崎の北1里に朝倉軍7000。さらに南東1里に浅井軍5000がいるッス。両軍、金ヶ崎砦を落とした上で、京の都へと退却中の織田本軍を追撃する腹積もりのようで」
「多勢に無勢の上に、挟撃されまするか。ありがたい境遇に涙が出ますな」
半兵衛が、皮肉っぽく言った。誰もが押し黙った。
状況は絶望的だ。迫ってくる浅井朝倉の両軍。逃げ出したいところだが、しかし南北に軍団を展開されている以上、これでは逃げることもままならない。
「かくなる上は一戦交えて勝利し、敵をひるませた上で撤退するが上策」
明智光秀が意見を発した。
上策もなにも、それくらいしか取る作戦がない。
誰もが異論はなかった。ただひとつ言えるのは、
「じゃあ、どうやって勝利するんだよ? こうまで敵との兵力差があるんだぜ?」
小六の言葉通りだった。
勝つ。そのためには果たしてどうすればいいのか。それが問題なのだ。
「なにか良い武具でもあればいいのだが……梅五郎、いや弥五郎。良い道具はないのかい?」
松下さんが、すがるような眼差しを向けてくる。
俺はしかし押し黙った。この状況で道具と言われても……。
しかし彼の期待には応えたい。十数年ぶりに出会った、かつての友であり上役。二度と友を失うのはごめんだ。松下さんを救うためにも俺がなんとかしなければ……。
考えろ、俊明。なにか策はないか。ここで勝たなければ、秀吉も家康も死んでしまう。それだけじゃない。俺も死ぬ。まだ死ねない。生きて帰って、伊与とカンナと樹、それに今度産まれてくるカンナとの間の子供に会いたい!
そのときだ。
ふっと、俺の脳裏にひらめくものがあった。
「藤吉郎」
「どうした、弥五郎」
「協力してほしいことがある。ひとつだけ、良い知恵が思いついたんだ」
すると藤吉郎は、ニヤリと笑った。
「汝、そろそろそういうことを言い出すと思っておったわ。言え。なんでも腕を貸してやるわい」
最初のコメントを投稿しよう!