第四部 第三十一話 信長包囲網

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第四部 第三十一話 信長包囲網

 いわゆる信長包囲網が形成されていた。  浅井朝倉両軍のほか、石山本願寺、伊勢長島の一向一揆、さらには南近江の六角氏など複数の勢力が織田信長を攻めたてる。  いっぽうで、信長の盟友たる徳川家康の領地も、甲斐の武田信玄が虎視眈々と狙っていた。緊張と戦闘の連続は、確かに織田家を疲弊させていた。  そして―― 「さすがに兵糧、弾薬の類の調達が、限界にきております」  この年の冬に入る前、俺はついに信長に告げた。 「交易によって銭や兵糧や弾薬を随分と稼いできましたが、これ以上の戦には耐えられそうにありません。また、火薬の類は特に不足しております」  織田家や神砲衆は鉄砲を使った戦い方が得意だ。  しかしそれだけに、一度の戦でかかるコストは相当なものだ。  弾丸や火薬がいくらあっても足りないほどなのだ。  昔、甲賀で戦っていたときも、カンナが部下たちに弾拾いをさせていたが、それをいま織田全軍にやらせたいくらい、もはや織田家には鉄や鉛や弾丸がなくなりかけていた。  やっぱり、前にも言ったが、カンナがいま、出産のために商売のほうに参加できないのが痛すぎる。  俺が物資調達の仕事にかかりきりなので、自然と商いのほうは手が足りなくなる。  だからといって俺が火薬や弾丸製造の方にかかりきりになると、今度は兵糧調達、物資調達ができなくなる。うまくいかないものだ。 「腹が減ってはいくさができぬ、か」  信長は重苦しい顔でうなずき、 「あいわかった。そういうことならば、やむをえまい」  ――織田信長が、南近江の六角氏、更に浅井長政朝倉義景と相次いで和睦したのはこのころのことだ。  敵も敵で長い戦いでずいぶん疲れていたようだから、この和議にはのってきた。もっとも、この和睦には天皇陛下と足利将軍家が調停役として参加しているからその効果もあっただろうが。……信長と関係が険悪になりかけている足利義昭だがしかしこの時点においてもまだ織田家と足利家は断交していない。信長はあくまでも足利将軍家を中心とした天下体制をこの時点においても考えていたし足利義昭にしても現実に機内を制覇しているの顔だけである以上完全に信長と関係断絶をするには至らなかったということだろう。 いずれにしても、織田家のいくさは少しだけ落ち着いた。特に足元の南近江の六角氏と和平ができたのはよかった。この和平には、甲賀にいる我が友、和田惟政が尽力したとのことだが、彼も頑張っているな。 「しかし弥五郎、これはかりそめの和平に過ぎぬよ」  岐阜城内の一室で、俺に向かってそう言ったのは藤吉郎であった。 「殿様は浅井と朝倉を許しておられぬ。体勢を立て直し次第、ふたたび彼奴らと、ことを構えるつもりじゃ。――事実、」  藤吉郎はちょっと声を低くして、 「わしは新しいお役目をいただいた。浅井朝倉と本願寺に関することじゃが、さて弥五郎、どういう役目じゃと思う?」 「おおよそ想像がつく。浅井朝倉と本願寺の間の商業的な繋がりを断てと言うご命令じゃないのか?」 「さすがは弥五郎。よくぞ見抜いた。その通りじゃ」  藤吉郎は明るい顔になった。  いやまあ、見抜いたと言うか知ってたからな。  元亀2年(1571年)1月。  織田信長は、近江の姉川と、朝妻という土地の間を、商人が通ることを禁止した。関所を作り、立ち入りを厳しく制限したのだ。この仕事をしたのが藤吉郎だった。 「浅井朝倉と本願寺の間に、兵糧や物資を交流させないようにするのだ」  信長は、そう言った。 「馬借や人足も、よくよく人となりを改めよ。かつて山田の女房の堤伊与が、金ケ崎まで使者を飛ばしたが、あの真似を敵にされないようにするのだ」  信長の命令は細やかであった。  藤吉郎はその仕事を、小一郎や小六、半兵衛らと共に行い、見事にやりとげたわけだが――  しかしささいなことではあるが、今回も伊与の金ヶ崎のときの行動が信長の行動に影響を及ぼしている。  もしも俺や伊与やカンナがこの世界にいなければ、多分この命令は起きなかったと思う。……どうにも、やはり分からん。俺の転生は計算どおりだったのか、どうなのか。  ところで―― 「あ、ふ。あぶ、う」  岐阜にある俺の屋敷の中にて。  いま俺の目の前には、薄い茶髪、それにくりくりとした薄蒼い瞳の男の子がいる。  カンナが産んだ、俺の息子だ。  樹のときよりも年をとったせいか、なんかすごく可愛く見えるぞ。 「樹。この子は弟だ。可愛がってあげなさい」  伊与が言うと、樹は、小首をかしげて、 「お父様とカンナお姉ちゃんの間に子供ができても、わたしの弟になるの?」  満年齢10歳になる娘は、意味がいまいち分からないようだった。 「お父様は同じなのだから、当然弟になる。名前は、牛神丸というのだ。ちゃんと牛神丸と呼んであげなさい」  この幼名は、戦国における俺の父の牛松と、カンナの名前のカンのところを合わせた名前だ。  元服のあかつきにはもっと別の名前を与えるが、いまは牛神丸だ。  藤吉郎は「変わった幼名よ」なんて笑っていたが、「お前、それ殿様の前でも同じこと言えるのか?」と言ったら、あいつは珍しく黙りこくった。……信長の嫡男はなにせ奇妙丸なんて名前だからな。牛神丸のほうがマシだろ? たぶん。たぶん。 「やっぱり、よく分からん。なんでお母様が違うのに牛神丸はわたしの弟なん! 分からん!」  樹は口を尖らせて、部屋から出ていってしまった。 「おい、樹! ……なんてざまだ。武士の娘が行儀の悪い……」  伊与はため息をついた。 「仕方なかよ。難しい年ごろになってきよるんやから」  牛神丸のほっぺたをつつきながら、カンナが言う。 「仕事仕事で、最近構ってやれていないからな。それもあるかもな」 「それも仕方なかやろ。織田家はいまが大事なときやし。……ここ数年がふんばりどころなんやろ?」 「ああ。再来年の4月に武田信玄が没するとかなり楽になるんだが、それまでの織田家は連戦連戦また連戦さ。なんとかあと2年ばかり。みんなには苦労をかけるが」 「俊明が手を抜いたら、あるいは歴史が変わり織田家はなくなるかもしれない。そう思えば粉骨砕身も当然のことだな」  伊与もまた手を伸ばし、牛神丸の髪をなでた。  牛神丸は、すうすう寝息を立てて寝はじめた。  ぐずりもせずに、おとなしい子だ。 「さしあたって次の織田家はどうなる? どの勢力と戦うのだ?」 「俺の知識通りなら、5月には長島の一向一揆を討つために信長が出陣するんだが、個人的にはそれより気になっているところがある」 「どこなん、あんたが気になっているところて?」  カンナの綺麗な顔立ちを見つめながら、俺は小さな声で言った。 「ことしの8月。白井河原の戦い。……史実通りにいけば、この戦いで和田惟政さんが死んでしまう。俺はそれを阻止したい」
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