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第四部 第三十二話 白井河原の戦い
元亀2年(1571年)の8月、摂津国の中で戦乱が起きる。
のちに、白井河原の戦いと呼称されることになるこのいくさ。
簡単に言ってしまえば、摂津国において足利義昭に反する勢力が立ち上がったので、義昭派の勢力がこれに対抗することで戦争になったものだ。
和田さんは、義昭派である。
信長からもその実力を認められ、摂津国内に城まで与えられた和田さん。
摂津の守護のような扱いまで受けていた彼は、京の都にいる義昭を守るためにも戦わなければならなかった。
「俺個人としては、和田さんにこの戦いに出てほしくない。なぜなら和田さんはこのいくさで討ち死にするからだ。戦いに出なければ、もちろん死ぬことはない……」
「しかしもちろん、そういうわけにもいくまいな。和田さんには和田さんの立場がある――」
岐阜城下にある神砲衆の屋敷内。
俺のかたわらで、いくさの準備をしながら、伊与が言った。
「なにより和田さんは、弾正忠さまの勘気を被ったことがある。ここで立場を捨てることは絶対にできまい」
伊与の言う通りだった。
去年の話だが、和田さんは信長から罰を受けたのだ。
それは城を取り上げられ、収入の一部も奪われるなど非常に厳しいものだった。
……なぜ、そんな扱いを受けたのかというと、これは信長と足利義昭の関係がしばしば悪化していたことが理由だ。伊勢国の北畠氏を打ち倒し、その北畠氏の養子に信長の次男を送り込んだあと、信長と義昭の関係は悪化した。
「けっきょく、織田家の領地を増やすことに、足利の名前を使っただけではないか」
「いえいえ、足利将軍家を支える織田家の勢力拡大は、最終的には将軍家の勢力拡大に繋がるのです」
お互いの言い分は平行線。
だが理屈はともかく、感情的にはこのとき、信長と義昭は確かにすれ違った。
いちおう表面上は、なお織田家と足利将軍家は連携しているわけだが――
和田さんはこの板挟みにあった。
信長と義昭の意見が対立するたびに、和田さんはなんとか仲介しようとするのだが、信長はそんな和田さんに対して、
「お前はいったい、どちらの味方なのだ!」
と怒り、罰をくだしたというわけだ。
中間はいつだって損をする。
もっとも信長も、申し訳ないと思ったのか、やがて和田さんを許し、以前よりも良い待遇を与えることになったのだが――和田さん自身の内心は、それで済むはずもない。
「将軍家と織田家のために、もっと働かなければ」
そう思うのは当然だった。
「弥五郎。滝川さんが来たばい」
カンナが、俺の部屋まで久助こと滝川一益を連れてきた。
「久しぶりだな、山田。お互いに忙しくなって、なかなか顔を合わせる機会もない」
口元に深いシワを刻んだ我が友は、しかし俺の前ではリラックスしたように足を伸ばす。
勝手知ったる神砲衆の屋敷だ。場にいるのも、俺と伊与とカンナと、久助の4人だけだ。
「あかりがいれば、ここに呼んだんだけどな」
「あっちは本来、津島の宿が忙しいんだろ? ……あの子とも、まともに会ったのはいつだったか。さいきん物忘れが激しくていけねえ」
「老け込むにはまだ早いよ。これからだろう、俺たちは。……それよりも今日は何の用だ? 和田さんの件か?」
「そうだ。ちょいと小耳に挟んでな。……お前、大殿様(信長)のご命令もなしに、伝右衛門(和田惟政)を助けにいくんだってな」
「ああ。弾正忠さまは俺に矢銭を稼ぐことをお命じだ。和田さんのことはなんの命もくだっていない。……だが俺はいく」
「…………。伝右衛門が、摂津でいくさをやりそうだってのは聞いているが……。今回に限ってお前がいくのは、やっぱりなにかあるってことか?」
「さすがは久助、話が早い。……俺のカンだがな、今回ばかりは和田さんの助っ人にいかないと、大変なことになりそうなんだ」
さすがに、未来人なので先の展開を知っていますとは言えなかった。
とはいえ、20年来の友人である久助はそれだけで理解したようで、
「お前のカンはいつだって正しかった。神砲衆の山田が言うならそうなんだろうさ。……オレもいまやひとかどの大将。勝手に動くことができねえが、せめてお前と伝右衛門を助けたい。大殿様が『山田はどこだ』って言い出したら、うまくごまかしておいてやるさ」
「ありがたい。いちおう岐阜にはカンナを残していくつもりだから、細かいところは彼女と打ち合わせてくれ」
「あたしだって、本当は和田さんを助けにいきたいとよ? やけど子供も生まれたばかりやし――」
「今回は激戦になる。戦いは私と俊明に任せておけ」
伊与が、微笑と共に告げた。
今回のメンバーは、少数精鋭。
俺、伊与、五右衛門、次郎兵衛、それに神砲衆の人間16人の合計20人でいくつもりだ。これ以上連れていくと、岐阜や津島の神砲衆の仕事に影響が出る。
「堤、お前さんもいくんだな。そりゃ良かった。じつはこいつをやるつもりだった」
久助はそう言って、ひとふりの刀を差し出した。
伊与はそれを手に取って――
「これは……関孫六!? 天文のころの名刀ではないか!? こ、こんな良い刀を――滝川どの、いいのか!?」
「構わねえよ。こいつで伝右衛門を助けてやってくれ。頼んだぜ、堤」
久助の言葉に、伊与は大きくうなずいたが、その瞳はきらきらと輝いている。
二尺三寸の名刀を貰ったのだから当然だ。関孫六――柔らかな切れ味が魅力の、実用性に富んだ一振りだ。久助め、いくら出世したとはいえこんな刀を贈ってくるなんて。
……それだけ、和田さんとの友情は大切ってことかもな。
無理もない。長い関係だもんな、久助と和田さんは。
俺だって。……俺だって、そうだ。もう知り合って20年になる。
「よし、いくぞ、伊与。なんとしても和田さんを助けるぞ!」
「無論だ!」
俺と伊与は立ち上がり、――摂津国へ。
白井河原の戦いの場へと向かった。
走る。
走る、走る、走る。
疾風のごとく。馬に乗り。
神砲衆の20騎がゆく――
「見えたぞ、俊明! あれに見えるは甲賀和田家の旗印だ!」
「間違いないッス。このまま合流できるッスよ!」
伊与と次郎兵衛が叫ぶ。
緑の草が生い茂る、細い河川のすぐ近くの塚の上に、確かに和田さんの手勢が見えた。
まだ陣形は整っていない。数も500余りに過ぎない。
いっぽうで川向こうに集合していた敵の軍勢は、その陣容をしっかりと整えていた。
その数はおおよそ3000。このままでは和田さんに勝ち目はない。そして実際、和田軍は敗北するのだが――
「そこをどこまで覆せるか。最低でも和田さんは助けてみせるが……!」
「そこの連中、止まれ! 何者か――ん? あ、あなた様は確か――」
和田軍の足軽数人が、弓を向けながら怒鳴ってきたが、すぐにその弓は下げられた。
見覚えのある連中だった。他の戦場でいっしょに戦った甲賀の兵たちだ。
「見ての通り、神砲衆の山田弥五郎だ。和田さんに会わせてくれ!」
叫びながら馬から降りる。
伊与たちも、それに続いた。
和田軍の兵は「ははっ」と頭を下げて、俺たちを和田さんのところへ案内してくれた。
「山田うじ!」
和田さんは俺と会うなり、目を見開いて、
「まことに貴殿か。まさか援軍に駆け付けてくれたのか。おお、それに堤うじ……そして次郎兵衛、おぬしまで!」
「へへ。あっしはもともと甲賀の人間。ずいぶん長いことアニキの世話になったッスが、和田家の危機に駆け付けないわけにはいかねえッスよ」
「うむ……」
伊与とは甲賀で共闘済み。
そしてかつて自分の配下だった次郎兵衛。
ふたりを見て、和田さんは感慨深げに首を縦に振り、それから彼方に見える敵軍を睨みつける。
風が、一瞬、強く吹いた。
和田軍の旗が大きく揺れる。
「風下だな。塚の上とはいえ、こちらが不利だ」
五右衛門が、独りごちるように言った。
俺は「おい」と、不吉な独言をたしなめるかのように手を振ったが、和田さんは気分を害した様子もなく、もう一度うなずいて、
「敵は多勢であり、地の利もある。それに比べてこちらは無勢。勝ち目はないゆえ、いったん退けと味方からも進言があった」
「ならば、退却しては」
「しかしここで我らが退けば、ただでさえ諸国に包囲網を敷かれている将軍様と織田様がどうなるか。味方からは謀反され、敵からはいっそう激しく攻められるのではないか? たかが摂津のひといくさ。されどこのいくさは、今後の織田家と将軍家の行く末を決めるいくさになるやもしれぬ」
……そうはならない。
史実ではこの戦い、和田軍が負けるが、それでいきなり織田家や足利将軍家が壊滅することはなかった。
しかし和田さんは大真面目だ。
未来を知らない。……ならば当然、真剣にもなるか。
やはり退却はしてくれそうにない。それならば――
「殿様!」
味方の兵がざわついた。
「敵が動きます!」
その叫び声通り、敵軍が少しずつ動き出した。
こちらに来るか? ……ならば相手になってやる。
「和田さん。……俺はあなたを必ず守る!」
「頼もしや、山田うじ! ……者ども、構えよ!」
和田さんの咆哮が、塚上に轟いた。
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