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第四部 第三十五話 燃える比叡山
1571年(元亀2年)、9月12日。
織田信長は、比叡山麓の坂本から火を放ち、日吉大社と延暦寺を焼き払った。
世にいう、延暦寺の焼き討ちである。
「俊明、見ろ。煙がのぼっているぞ!」
「ああ、分かっている。いまごろ比叡山は焦土と化しているだろうぜ」
激しく立ち上る煙を、俺たち一行も遠方の荒野から見ていた。
「弾正忠さまも、ずいぶん激しいことをなさるものだ。八百年の伝統を誇る延暦寺を焼き払うとは――」
「……しかし、やむをえまい」
伊与の感想に、和田さんは渋い顔をしつつも、そう言った。
「近ごろの延暦寺の坊主どもの行いは、目に余るものがあり申した。出家の身でありながら、獣の肉を喰らい、女を抱き、酒を浴び――それがしから見れば、南蛮の宣教師たちのほうが、よほど誠実に神の教えを説いてござった」
「いえ、和田さん。……そういうこともあるでしょうが、焼き討ちの理由は、あとふたつ、あると思います。ひとつは比叡山の坊主たちが浅井・朝倉に味方をしていたこと。そしてもうひとつは、比叡山が支配している坂本の町を弾正忠さまが求めたこと……」
いまから4年前、坂本の町を訪れたことを思い出す。
カンナとふたりで、坂本の町がいかに物流と商いの拠点であるかを話し合ったものだ。
「今後の織田家の戦略のためにも、弾正忠さまは坂本を求めたのでしょう。ただでさえ包囲網を敷かれ、いくさ続きで、織田家は銭を欲していますから」
「言われてみればそうか。……うむ、さすがは山田うじだな。銭の目線でものを見ておる」
「しかし延暦寺をこうまで焼き払えば、殿様の世評もずいぶん落ちるだろうな。今後の織田家の運営に、差し支えがなければいいが」
「もちろん弾正忠さまはそこも考えているさ。焼き討ちといっても、比叡山のすべてを焼き払ったり、坊主を皆殺しにするわけじゃない」
信長の比叡山焼き討ちは、かつては山全体を焦土にし、ひとびとを大殺戮するほど、凄まじいものだったと言われていた。
しかし実際のところ、比叡山の中でも燃え尽きたのは一部の建物に過ぎず、殺された人間の数も、あくまでも抵抗を続けた僧兵のみだったと言われている。信長はあくまでも坂本を手に入れることと、敵対勢力を抑えることが目的で、殺人がしたかったわけではないのだ。
「そろそろ焼き討ちも終わりのはず。弾正忠さまにお目通りいたしましょう」
焼き討ちには藤吉郎も参加しているはずだ。
まずは彼と合流して、そこから信長に会えたらスムーズに事が運ぶと思うが――
と、俺たちが動き出した、そのときであった。
「ッ! 何者か!」
和田さんがふいに、棒手裏剣をあさってに向かって投げつけた。
その先には、大木がそびえ立っていて――その樹木に手裏剣が突き刺さった。
「和田さん、どうした!?」
「その陰に、誰かが潜んでいる。……姿を見せよ!」
さすがは甲賀忍者の和田さん。
俺や伊与、五右衛門でも気付かなかった人の気配を悟るとは。
しかし、木陰にいるのは誰だ?
「……ふふ、失敗、失敗。バレてしまいましたわね」
そう言って、大木の向こう側から登場したのは、――未来!
飯尾家の娘。金ヶ崎で俺たちを窮地に追い込んだ武田家の女だったのだ!
「未来! また俺をつけ回していたのか!」
「わたくしはいつだって、あなた様を気にかけておりますもの。山田弥五郎さまを地獄に追い込むのは、わたくしだけだと自負しておりますので」
「この女が、俊明を狙っているという未来か。……お初にお目にかかる、と言いたいところだが」
伊与が、関孫六を抜いて構えを取る。
すると未来は、怖い顔をして、
「お師匠様の正室、堤伊与。わたくしを差し置いて、お師匠様と男女の中になった不届き者。……わたくしの中で、蜂楽屋カンナと並んで目障りな女ですわ」
「それはありがたい。私も、そしてきっとカンナも、お前とは気が合わぬことだろう」
ふたりの女が睨み合う。
その横で、俺も五右衛門も和田さんも、それぞれ武器を構えた。
「未来。多勢に無勢だ。この状況で勝てると思うな」
「そういうこと。金ヶ崎での借りは、きっちり返してもらおうかね」
金ヶ崎で足首を痛められた五右衛門は、特に未来に遺恨があるようで、眉間にしわを寄せている。
すると未来は、さすがに険しい顔をしていたが、やがてふっと笑って、
「もちろん、わたくしも馬鹿ではありません。ここはいったん退くことにしましょう。……そこにおられる和田殿さえいなければ、堤伊与と石川五右衛門くらいはあっさり殺せたものを、惜しいことです」
「ふん、私も見くびられたものだな」
「どうせまた、顔を合わせることがあるでしょう。……我が主、信玄公と織田信長は、いずれは衝突する運命にあると存じますので」
未来は、道化師のように肩をすくめると、――俺を見つめてニヤッと笑い、
「それにしてもお師匠様。信長の延暦寺焼き討ち。あれは大失敗でしたわね」
「……なに?」
「信長はあくまでも寺の一部を焼いただけと言いはるでしょうが――それでも焼き討ちは焼き討ち。……ふふ、彼の天魔のごとき振る舞いは、せいぜいこちらも利用させてもらうとしましょう」
「なんだと?」
「それでは、わたくしはこれにて失礼いたします。さようなら、お師匠様。わたくし以外の誰にも、あなた様が殺されませぬよう!」
「待て、未来!」
俺は手を伸ばしたが――
そのとき風がぶわっと吹いた。
そして未来は、そのときさっと木陰に入り、気が付いたらもういなかった。
「なんなんだ、あの女は……」
伊与は、未来を討ちもらしたことを悔やんでいるようだ。
なにやら嫌な予感がした。……未来は、なぜここにいた? 武田信玄の家来のあいつが、意味もなくここにいたわけじゃないだろう。俺たちを狙っていた? いや、俺たちがここを通ったのは偶然だ。ということは――
「山田うじ。あの女はおそらく、武田信玄の命令で、比叡山を見張ってござったな」
「和田さんも、やはりそう思いますか」
「武田家がくさい。金ヶ崎における浅井朝倉の行動にも、信玄入道は一枚噛んでいたと聞き及び申すが……」
和田さんが考え込む顔をした。
そのときである。「おーい! アニキ!」と声がした。
見ると、和田さんの息子の様子を見に行っていた次郎兵衛がこちらに向かってくる。
「次郎兵衛! 戻ってきたのか!」
「おかげさまで。……それよりも、ご報告申し上げます。和田伝右衛門惟長さまは、あっしが伝えるまでもなく、すでに甲賀へと駆け戻ったご様子!」
「なに!? ……息子は、それがしの命令も受けずに、逃げ帰ったと申すのか!」
「へい。和田さまが討ち死にされたと思いこんで、退却したということで」
「情けない! 確かに逃げてほしいとは思っていたが、命令も受けずに撤退するとは!」
和田さんは愕然としたが……。
俺はこの結果を知っていた。
和田さんの息子の和田惟長は、やや臆病な人物なのだ。
史実でも、和田さんが死んだと聞いて、すぐに逃げてしまい、それで周囲の信頼を失ったとされている。
和田さんは、相当ショックだったようだ。
深刻な表情をしている。……が、やがて、
「山田うじ。……すまぬが、弾正忠さまへのお目通りは、なしにしてくれぬか」
「……なぜです?」
「それがしはお役目を果たせず、息子は誰より先に逃げ帰る。これでなんの面目あって、主君に顔見せできようか。和田家の面子が立たぬ。恥ずかしいにもほどがある」
「…………」
「……かくなる上は、新たなる手柄を立ててから、その上で弾正忠さまにお許しをいただきたい」
「その気持ちは分かりますが……。新たなる手柄とは?」
「次郎兵衛!」
「はっ」
次郎兵衛は、さっと和田さんの前に膝を突いた。
和田さんは満足げにうなずくと、俺のほうへと向き直り、
「それがし、この次郎兵衛と共に、甲斐に向かい申す」
「「「甲斐に!?」」」
俺、伊与、五右衛門が揃って声を出す。
「信玄入道がなにやら企んでいると分かった以上、忍びとして甲斐にもぐりこみ、敵情を視察して参る所存」
「そ、それは――確かに武田家の情報は欲しいですが……大丈夫ですか?」
「忍びとしては、誰にも遅れはとらぬよ。それに次郎兵衛がいる。……ついてきてくれるな?」
「無論。あっしはもともと、和田さまの家来ですからね」
次郎兵衛は大きくうなずいた。
その姿は、俺の目から見ても頼もしかった。
「うむ。では頼む。山田うじと共に、川中島まで向かったというおぬしがいてくれたら心強い」
「もうそれは、ずいぶん昔の話ッスよ」
「それでもそれがしよりは、武田を知っていることになる」
和田さんは本気で武田領に入るつもりらしい。
それならば、もう俺がとやかく言うことはない。
「分かりました。では、続報をお待ちしています」
「うむ。……弾正忠さまと息子には、まだそれがしが生きていることは言わないでおいてくれ」
「分かっています。久助(滝川一益)にだけ伝えておきますよ」
「ああ、それでいい。……戻ってきたら、山田うじとあやつとそれがし、3人でまた会いたいものだ」
「津島のときのように、ですね」
「そういうことだ」
和田さんは力強くうなずくと、――やがて次郎兵衛を引き連れて、東へと向かっていった。
「俊明。……和田さんは大丈夫だろうか?」
「俺の知っている和田さんの運命は変えられた。きっと平気だよ」
俺と伊与は、ヒソヒソと話しながら、和田さんたちの後ろ姿を見送った。
それから俺たちは、延暦寺を攻めていた藤吉郎の軍勢にひっそりと忍び込み、そのまま岐阜へ舞い戻った。
和田さんが生き延びたことを、俺は滝川一益にだけ報告したが、そのとき久助はわずかに涙ぐみ、
「あの野郎、ちゃんと生きて戻ったか。……ならいいんだ。……山田、ありがとうな」
あごひげを撫でながら、彼は確かにそう言って、和田さんの生存を喜んだものである。
「しかし信玄入道はなにを考えていやがるんだ? その未来って女を比叡山に派遣して、どうしようってんだ?」
「さあ……。焼き討ちは大失敗だった、とは言っていましたが……」
「なにが失敗なもんかよ。延暦寺のクソ坊主どもはこれで押し黙ったし、坂本の町も明智十兵衛が守りに入って万全の状態だ。武田家がなにをどうしようったって、無駄なことだぜ」
「明智……明智十兵衛どのが、坂本に入りましたか」
「ああ。あいつは延暦寺の焼き討ちでも手柄があったからな。新参だが大したもんだぜ。……明智がどうかしたのか?」
「いえ……」
明智光秀には金ヶ崎で助けられた。
彼には恩がある。だからこそ、よく彼のことは観察し、止められるところは止めなければならない。
本能寺の変という、織田家の人間が(明智も含めて)ことごとく不幸になる道だけは避けたい俺なのだから……。
その信玄。
なにを考えているのかというと――
やがてそれは明らかになった。
延暦寺の焼き討ちからわずか数日後。
信玄の檄文が、諸国に出回ったのだ。
すなわち、
【織田信長は比叡山延暦寺を焼き討ちし、坊主だけでなく女子供まで皆殺しにして回った鬼である! 決してこの罪は許されない! 諸国の大名・国人・民衆生よ、この暴虐を決して許すな!】
このような文章である。
本来の信長の行動よりも、明確に、残酷であることを強調していた。
すなわち信玄は情報戦に出たのだ。織田信長がいかに悪魔的な人物であるか、諸国に喧伝することで、織田家の評判を下げようとした。そして織田家を討ち果たす大義名分としたのである。
「信玄め、やりやがった!」
岐阜城下。
神砲衆の屋敷で、俺は叫んだ。
「やられたぜ。さすがだ。ここまでされたら、嘘であっても信じるやつが出てくる。織田家の評判はガタ落ちだ。武器兵糧の仕入れや商取引にも影響が出てくる……!」
「未来が言ったのはこのことだったのだな。比叡山の焼き討ちそのものが事実なだけに、反論しづらい……」
伊与も、ひどく渋い顔をしている。
樹など「母上、怖い」と言って部屋から出ていってしまったほどだ。
「ただでさえ織田家は、いくさ続きで疲れとるとにから……。このままじゃみんな、ごはんも食べられんようになるばい」
カンナがため息をついた。
彼女の嘆きはもっともだ。
信玄がこのような形で攻めてくるとは、あまりにも計算外だ。どうする……?
そのときだった。
「弥五郎! おい、おい、あの――」
珍しく、五右衛門が慌てた様子で飛び込んできた。
どうした、五右衛門、と言いかけたところで、
「邪魔するぞ」
ぬっと、背の高い男が室内に入ってきたのだ。
誰もが仰天した。入室してきたのは、なんと、
「だ、弾正忠さま!?」
そう、信長そのひとだったのである。
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超絶クールな金髪美少女が底辺オタクの俺にだけは『好いとうよ(はぁと)』って博多弁でぐいぐい迫ってくるんだが?
https://estar.jp/novels/25571820
カンナをメインヒロインにしたスピンオフの学園ラブコメ、先日、本編よりいち早く完結しました。
よかったら読んでください。カンナとひたすらラブでコメる作品でございます。よろしくお願いします。
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