第四部 第四十話 信玄の兵糧

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第四部 第四十話 信玄の兵糧

 武田信玄を相手に敗北した徳川軍と合流し、浜松城に入った俺たちだったが、 「勝てる相手ではない!」  家康は、奥の部屋に俺たちや、徳川家の重臣だけを招き入れると、開口一番、怒鳴るようにして嘆いた。 「おぞましい男だ、信玄は……。こちらのあらゆる攻めを弾き返し、あらゆぬ逃げを見抜いて矢弾をうちかけてきおったわ!」 「さすがに甲斐の猛虎と称されるだけはございましたな。徳川の動きをなにからなにまでお見通しという仕掛け方でした」  石川数正が、こちらは冷静に、それでも白い顔でうめいた。藤吉郎は、渋い顔をして、 「信玄入道の采配は鬼神のごとくと伝わるが、それほどものすごいか」 「いや、木下、そいつはおそらく違う」  滝川一益が低い声で言った。 「いかに武田がつわ者揃いといっても、徳川様とその手勢とて三河随一のいくさ上手。それがこうも一方的にやられるとなりゃ、理由はおそらく」 「忍びか……」  佐々成政が、ぽつりと言った。  納得のいく話だった。忍者を使うことにかけては天下一と噂される武田信玄の放った忍びが、徳川軍の内と外からその動きを徹底的に監視し、すべてを信玄に伝えているのだろう。  結果として、徳川軍は、そのいくさの開始から終了まで、確かにひたすら劣勢に追い込まれた。信玄が、忍びからもたらされた情報を最大限に使い切った証拠だ。 「これだから、信玄にはまともに勝てねえというのが、うちの上総介様のお考えさ」  前田利家が、口を開いた。 「信玄は織田家中にもさんざん忍びを放っている。仮にいくさをすれば織田だってまともに勝てるもんじゃねえ」 「忍びなんざ、どこの大名でも使っているが、武田信玄はとにかくその使い方がうまいと評判だからな」  蜂須賀小六が、うなずいた。 「――だから、オラたちが信玄を暗殺するしかねえってわけか」 「織田どのも無茶を申される」  徳川家康は、陰気な顔をして、 「信玄ほどの大将となれば、毒にも刺客にも備えて、まわりに常に信頼できる近侍を従えておる。鉄砲で狙い撃つにも、信玄には影武者が何人もおり、どれが本物かまるで分からん」  しかも影武者のひとりは信玄の弟だ、と家康は言った。  だから信玄そっくりで、武田の重臣でもときどき見間違うほどなのだという。 「しかも武田軍は、我が徳川家を打ち破り、まさにいまから三河、尾張へと軍を進めようとしております。信玄を殺すのであれば早急にしなければ、間に合いませんぞ」  石川数正は、俺たちにプレッシャーをかけるような言葉を口にした。なんだか他人事みたいにつぶやいたそのセリフに、その場にいた何人かは少し眉をひそめたが、 「いや、石川どののおっしゃる通り。これは即座に我々も動かねばなりませんなあ!」  藤吉郎が、ばかに明るい声で言った。  場の空気が変に落ち込み始め、石川数正にかすかな反感が集まろうとしていたのを察して、吹き飛ばそうとしたのだろう。彼はそういう男だ。 「なに、徳川様、石川どの。我々も遠江まで遊びに来たわけではござらん。信玄は必ず殺してみせますゆえ、ご安心くだされ!」 「ずいぶん明るく言うもんだな」  家康は、藤吉郎の明朗声に苦笑いし、 「ひとひとりを殺すことを、それほど楽しそうに言う男を初めて見たわ」 「暗くなっても始まりますまい。いかなる後ろめたいことも、明るく明るくやっておれば、万事日輪が味方してくれ申す。わしは何事もそのように思っていくさをしておりまするよ!」  藤吉郎の声は、その場を確かに盛り上げた。前田利家や蜂須賀小六などは、ニヤニヤ笑い出し、石川数正でさえ、悪い気分ではなさそうだった。  もっとも暗い顔が消えない者もいる。  滝川一益は、藤吉郎の馬鹿笑いにむしろ、気分を害したふうで、 「お前さんの高論もごもっともだがな、さて現実はどうする? 日輪がオレたちに味方して、信玄を焼き殺してくれるわけでもねえだろう。武田に対して、具体的にこれからどうするかを考える必要がある」 「うむ、それもごもっとも。さすが滝川どの、わしのように頭からっぽのサルとは違う。ちゃんと先を思案してござる、わっはっは」 「おだててねえで、真面目にやれって言ってるんだよ、木下――」 「まあまあ」  ふたりの間がうっすら殺伐としはじめたので、俺は割って入った。仲間同士で揉めても仕方がない、と俺は言って、 「信玄を殺すのは当然だが、その前にまず、いま三河から尾張に進もうとしている武田信玄をなんとか足止めしておきたい」  そのように告げた。 「すべてはそこからじゃないか? みんな。信玄の軍を食い止めて、そのうえで信玄の本陣の守りがどういうものかを調べたうえで、――狙撃するなり襲撃するなり、しなくては」  それは俺なりに考えた案だった。  これには藤吉郎も誰も反対せず、無言でうなずいた。 「しかし、信玄の軍をどう食い止める。言うまでもないが、我がほうには信玄と戦う兵は、もう残っていないのだ」  家康が言った。 「もうひとつ言えば、なるほど尾張や三河に信玄が進むのは困るが、遠江ならば良いというわけでもない。この国も我が領国。あまり長々と信玄が滞在し、あるいは暴れ回られては困る」 「うわさでも流しましょうか。尾張三河や、また浜松城には、信玄も把握していない織田の大軍勢が控えている、と……」  滝川一益が言ったが、家康は「むう」と渋い顔をした。  その程度の策など、信玄はお見通しだと言いたいのだろう。  そのとき藤吉郎が叫んだ。 「いやいや、そのうわさの策も捨てたものではございませんぞ、徳川様。やりましょう。――と同時に、そのうわさが本当であると信玄に信じ込ませるための策略も仕掛けましょうぞ!」 「……ふむ、信じ込ませるための?」 「左様、左様。そう――例えば、かつて我ら、甲賀忍者を金で雇ったり、あるいは近江の六角家と同盟を組んだことがあり申すが――岐阜城に使いを出し、我らが殿に、そのときのような動きをするように、お願いをするのでござる」 「おお! そのときのような動き、か!」  家康は、得たりとばかりにうなずいた。  すると、これまでむっつり黙り込んでいた竹中半兵衛も首を縦に振り、小さな声で、 「じっさいに、動く必要はないのですな」 「……どういうことです?」  木下小一郎が、片眉をあげる。  藤吉郎の言い分が、よく分かっていないようだった。  俺は彼に首を向けて、 「つまり、弾正忠さまが、いかにもどこかに援軍を依頼するように、見せかけて行動するわけさ。すると信玄は、岐阜に放っている忍びから、その動きの報告を受けるだろう。そうすれば用心深い信玄のこと、『織田家には援軍があるという噂は、本当だったのか』と思い込み――一時的に軍の動きを止めるに違いない」  滝川一益が放つ噂と、実際の信長の動き。  いわば二刀流で、信玄の動きを牽制しようというわけだ。 「……策としては、悪くはない。が――」  明智光秀が、無表情のまま、うめくように言った。 「だが、それでも信玄の動きを長々とは止められまい。せいぜい数日、もって半月。信玄はこちらの策だと見抜き、再び軍を動かすだろう」  それだけ恐ろしいのだ。  武田信玄という男は。  だが、明智光秀の言葉を、藤吉郎はむしろ、待っていましたとばかりに手を叩き、 「それくらいは分かっておるわい、明智殿よ。……ここからがむしろ、本当の策よ。三本目の矢を放つのだわ」 「ほう、さらにまだ計略があると? うかがおう」 「ここから先はむしろ、弥五郎の領分じゃが――」  藤吉郎は、俺の顔を見てニヤニヤ笑った。  チラチラと、末座に控えている松下嘉兵衛さんのほうも見ながら。  それで俺はピンときた。 「そうか。よく分かった。そういうことか!」  俺たちが徳川家と合流してから、数日も経たぬうちに――  遠江に噂がまき散りはじめた。三河、尾張には、織田家の大軍団が控えている、と。  その噂と同時に、岐阜から使いが四方八方に飛びだし、さらにその使いたちは、それぞれ手紙を有していた。 『援軍のお約束、ありがたく存ずる。信玄を尾張まで引きずりこんだが最後。あの入道を5万の兵で叩き潰してみせよう』  この手紙を、あえて武田忍者の手に入るように信長は仕込んだ。  結果として、武田家は「尾張には織田の援軍がいる」と確かに思い込み、遠江の土地で動きを鈍くした。  さらに、それだけではない。 「兵糧が奪われた! 奪われたぞお!」  武田軍の下っ端兵が、陣中で騒いだ。  甲斐や信濃、駿河から、遠江に運ばれてくる武田軍への食料が、何者かの襲撃によって奪われ、あるいは焼かれたのである。  徳川家の攻撃か――  武田家は当然、そう思ったが、じじつは違う。  武田軍の兵糧部隊を襲撃したのは、俺たちである。 「徹底的に、敵の兵糧を奪え。余裕がなければ焼いてしまえ!」 「兵糧を扱う者を襲うのは、気が引けるがな……」  俺は伊与を連れて、武田軍の部隊を次々とゲリラ的に襲撃した。  仲間の中には、松下嘉兵衛さんもいた。遠江の地理に詳しい松下さんがいればこそ、これは成り立つ作戦だった。 「藤吉郎は、よくこんな策を思いついたものだね」  槍を振り回しながら、松下さんはニヤついて言ったものだ。  俺も銃を構えながら、 「なに、かつて川中島に兵糧を届けたことがあったでしょう。あのときの経験も生きているんですよ。武田軍の兵糧勢の動き方を、藤吉郎はよく覚えていたんです。どういう装備で、どういうふうに兵糧を運ぶのかをね」 「よく覚えている。やはり彼は、ただものではない」 「まったく、俺もそう思います」 「そなたもだ、弥五郎」  松下さんは、ますます笑った。 「見事に武田の兵糧運びを阻止した。これでいっそう、やつらの動きは鈍くなる」 「その通りです。そして」  わぁ、わぁ、わぁ……。  武田の兵糧部隊は、俺たちの襲撃を受けて、逃げていったのだが、 「兵はあえて逃がせよ。狙いは兵糧だけでいい!」  俺は、部下たちに厳命した。  無駄な殺生はしたくない、というのもあるが、 「狙いはここからなんだ。俺たちの狙いは……」  そう、俺たちの本当の目的は信玄暗殺。  それだけは揺るがないのだから。――そのための作戦なのだ。  さて。  俺たちによって追われた武田の兵は、当然、武田信玄率いる本軍に逃げ帰った。  武田本軍は悩んでいた。兵糧の量が少ない。これはなんとかしなければならない。  だがもちろん、そんなときでも、軍の総大将たる武田信玄は、一人前の食事を摂っていた。  大将ゆえに、当然である。ほかの家臣や足軽、雑兵の類は、食事の量を減らすことでこの危機に対応していたが、信玄は、もっとも偉いゆえに、米も味噌もきちんと食べていた。そうしなければならない立場でもあった。空腹では頭が働かない。  その動き。  武田の本陣の後方にある小屋の中に、一人前の食事が運ばれていく光景。  ひそかに武田の本陣を見張っていた石川五右衛門は、確かに見た。 「あそこだ。信玄はあそこにいる」  この瞬間、神砲衆は武田信玄の居場所を把握した。
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