第四部 第四十四話 月夜の呼子笛

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第四部 第四十四話 月夜の呼子笛

 ピィーッ……  ピィーッ……  ピィーッ…… 「なんじゃあ、いったい……!?」  夜である。  野田城を取り囲んでいる、武田軍の雑兵たちは、戦場に響き渡る不気味な音に、眉をひそめた。 「鳥が、鳴いておるのか?」 「こんな鳴き声の鳥が、おるもんかい」 「わからんぞ。三河にはいるのかもしれん」 「……待て、そもそも……こりゃ、野田城の中から聞こえておるんじゃ!」  兵たちはざわつき出し、やがて野田城を睨みつけた。  野田城は、両手に川が流れている。天然の濠というわけだが、武田軍の兵たちは、その濠ごしに構える野田城の土壁を、じっと眺め続けた。間違いなく、この不気味な甲高い音は、月明かりに照らされた野田城の中から、聞こえてくるのである。 「妙な策の、前触れかねえ?」  兵のひとりが、つぶやいた。 「妙な策?」 「そう。野田城の中には、稀代の知恵者、竹中半兵衛もいるらしいじゃないか。それに、武具作りにかけては織田家随一の山田弥五郎もいる。どんな策を仕掛けてくるか、知れたもんじゃねえ。このピーピーうるさい音は、その策の前兆かもしれないってことさね」 「「「…………」」」  武田軍の兵たちは、わずかに震えた。  それほど、この甲高い音は、不気味に聞こえたのである。 『妙な策の前触れ』と告げたこの兵が、男装している五右衛門だということに、気が付いた者はいなかった。 「ピィーッ! ピィーッ……!!」 「小一郎、もういい。次は私がやろう」 「はぁ、ふう。……いえ、このお役目、おなごの堤さんにはさすがに大変では――」 「馬鹿にするな。これでも場数を踏んでいる。そのあたりの男に遅れは取らないさ。――ピィーッ! ピィーッ……!!」 「す、すごい……」  伊与が奏で始めたその音色の高さを聞いて、小一郎は口を開けた。  小一郎の出した音よりも、伊与が出した音のほうが大きかったからだ。 「弥五郎。汝の作った笛は、さすが、見事よの」  藤吉郎が、笑顔で言った。 「呼子笛(よぶこぶえ)――と申したか。小さいわりに、奇妙で大きな音を出す笛よ」  呼子笛。  それは21世紀の言葉でいえば、ホイッスルだ。  運動会など、スポーツでさんざん使われるあの笛だ。  この笛。いかにも昔からありそうで、じつは日本においては戦国時代には存在しない。江戸時代に入ってから、按摩(マッサージ師)が客引きなどのために木製の呼子笛を使用したとされているが、いまの時代にはまだない種類の笛なのだ。  それはすなわち、呼子笛の音を、この時代の日本人は『聴いたことがない』ということを意味する。  ピィーッ……!  ピィーッ……!  ピィーッ……!  俺が作った呼子笛を、野田城はひたすらに吹き続けた。  木をくり抜いて作り上げた笛を、何個も用意し、野田城内の兵たちが吹き続ける。ときには前田利家や明智光秀も吹いた。戦場には、この世界に存在しない音色が不気味に轟き続けた。  それが、3日も続いた。 「なんなんだ、あの音は」 「耳障りだ。薄気味が悪くて、ちっとも寝られん」 「だから野田城の策だって。いまになにか、どーんとくるぞ、どーんと」  武田軍の兵たちは、不安に怯え、不眠に悩み、さらにそこへ、五右衛門が流言を垂れ流すものだから、すっかり士気が下がっていった。  しかも、そこへ、武田軍本来の問題が登場した。  そう、兵糧である。 「兵糧が、いささか足らぬか」  武田軍の本営にして、武田信玄は家来の報告を聞いていた。  神砲衆の襲撃によって、不足気味だった武田軍の兵糧が、いよいよ足りなくなってきたのである。  本来、兵糧を奪うために、野田城を襲撃した武田軍である。  だが、山田弥五郎たちが野田城に入ったと聞いた信玄は、力攻めではなく持久戦の構えを取った。そうなると、当然、兵糧は不足しはじめる―― 「いえ、本来ならばさすがにまだ、兵糧は足りておりました。ただ、状況がいささか変わりまして」  家来は、冷や汗をかきながら信玄に向けて告げた。 「遠江の商人から買い入れ、こちらに運んでくる予定だった米が、届かないのでございます。――どうもその商人、米をよそに流したそうでございます。武田家が支払った金の、数倍の価格をよそに提示されたようで」 「それで米を流したと申すか! ……商人とは食えぬものよ」  信玄は、遠江の商人に数倍の価格を提示したのが、松下嘉兵衛だとは思いもしていない。遠江の地理に詳しく、そして、かつて山田弥五郎と組んで商いを行っただけに、商人とも繋がりのある松下嘉兵衛は、遠江におもむき商人から米を買収したのである。  弥五郎の呼子笛。  五右衛門の流言。  嘉兵衛の兵糧買収。  ひとつひとつは小さな策だが、それが積み重ねとなり、武田軍をじんわりと締めつけはじめた。  ここに来て、信玄は目を見開き、家臣たちの前で宣言した。 「まずは、音じゃな」  夜になるたびにピイピイと鳴り響く、うっとうしい事この上ない謎の音の正体を突き止めねばならない。なんの音なのか分かれば、兵たちの不安も取り除ける。 「わしみずから、探りを入れてみよう。今日の夜、野田城に近付いて、耳を澄ませてみることにする」 「それはなりませぬ、お屋形様!」  家臣団は、慌てて止めた。 「城に近付いて、矢を射かけられてはいかがしますか。あるいは鉄砲!」 「そう、野田城の中には、鉄砲の名手で知られる山田弥五郎や佐々内蔵助、滝川久助らがおりまするぞ!」 「まさに織田上総介が、先年、鉄砲で狙い撃ちにされたではありませぬか。また備中の三村家親の例もあり申す!」  三村家親とは、備中国の戦国大名である。  7年前の永禄9年(1566年)、政敵であった宇喜多直家(うきたなおいえ)の放った刺客が家親に向けて鉄砲を使い、狙撃した。家親はそれで暗殺されてしまったのである。 「むろん、分かっておる。わしも鉄砲には詳しい。城に近付くといっても、決して鉄砲弾の届かぬところで、音を聴くつもりじゃ。それに」  そこで信玄は振り返った。  彼の背後には、女が立っていた。  未来である。  山田弥五郎を敵と憎む、この因縁深い女が、信玄の背中を守っていた。 「用心棒もおる。……未来を連れて参る。山田弥五郎がわしを狙えば、この未来が気付いてくれるわ」  信玄の信頼に、未来は涼しい顔で、ただ小さくうなずくばかりであった。  いずれにせよ。――山は、動いた。信玄は、この夜、未来と、家来衆数名を引き連れて、野田城に接近したのである。 ------------------ 「戦国商人立志伝」ASMR、『博多弁金髪和装娘・カンナとのあまあま囁き生活』サンプルボイスが届いています。ぜひ聴いてみてください。
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