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第四部 第四十七話 風林火山、死す
「よしてくださいましいぃッ!」
「撃てッ、山田!!」
未来と滝川一益の叫び声を、同時に聞きながら――
俺は、武田信玄を狙撃するべく、ついに引き金を引いて――
「――よせ、弥五郎ッ!!」
「なに!?」
「分からぬか!? あやつは違う! 信玄ではない!!」
叫んだのは、藤吉郎だった。
俺は慌てて狙撃を中止した。
「ど、どういうことだ、藤吉郎」
「影武者じゃ。あの赤武者をよく見ろ、あれが信玄か!? ……違うぞ、わしが川中島で見た武田信玄とは、……違う、あんなに貧相な男ではなかったわ!」
「影武者だと……!?」
俺にはそこまで分からなかった。
濠の向こうに見える赤武者は、信玄だと思った。
周囲に、身分の高そうな武士たちを従えて――あれが影武者だと? ということは――
「謀られたかッ!?」
「やっとお気付きで!!」
「あ、ぐッ!」
俺が振り向いた瞬間、未来が短刀を振りかざし、滝川一益がその首筋から血液を噴き出させつつ、片膝を突いた。未来だ。未来が、滝川一益をやった!? あ、あの滝川一益がやられたのか!?
「久助! 大丈夫か!?」
「くそったれ! このオレが不覚だと……!」
「ふふ、手強い、手強い。さすがは滝川久助どのだこと。けれども,夜の戦いにおいてこの未来の上をいこうとは無駄なこと。……それにしても木下藤吉郎。よく影武者を見抜きましたこと」
「わしにもよう分からん。なにか、なにか違うと思った。……大名には風格があるものじゃ。上総介さまにせよ、桶狭間で倒した今川義元にせよ、大名には余人が近寄りがたい威厳がある。それがあの赤武者からは感じられなんだ。川中島のときには確かに見えた、風林火山の気迫が見えなんだ!」
藤吉郎……。さすがだ。
俺には分からなかった、戦国大名の格を読み取ったのか。
おそらく、豊臣秀吉にしか見えない――超一流の人間にしか何かを、あの影武者からは感じられなかったのだ。
「影武者を暗殺させて、こちらを油断させようという罠かの? 女忍者……。つまらぬ手を使う」
「ですが、そのつまらぬ手に引っかかる寸前だったでしょう? 弥五郎さまは」
「なんの。わしと弥五郎は一心同体よ。弥五郎が気付かずとも、このわしが気付けばそれでよいのよ。……本物の信玄はどこじゃ? どこにおる」
「それを尋ねられて、はいあそこです――と答える忍びがいると思いまして?」
未来は、短刀をさらにもう一本取りだして構えた。
二刀流。……その構えを見るだけで、彼女の戦闘力が怪物じみていることが分かる。
「わたくしの目的はふたつ」
未来は、笑みを浮かべつ語る。
「お屋形様の影武者を殺させて、織田・徳川軍を油断させること。そしてもうひとつは、野田城に入り込んだ織田家の主な家臣たちを皆殺しにすること。――その中でも特に、弥五郎さま、あなた様を確実に、今度こそ殺すこと! ……残念ながら影武者を殺させることは叶いませんんでしたが、弥五郎さま、あなた様を殺すことは、これからでもできます!」
「……ペラペラとよくしゃべる忍びだぜ……」
滝川一益が、ひざを突いたまま、苦い顔で言った。
「ゴチャゴチャと喋ってるヒマがあるなら、かかってこいよ」
「無粋な男。……弥五郎さまには、弥五郎さまだにだけは、分かってもらいたい。わたくしの心の中。理解できませんの? 滝川どの、あなた、女性とは縁が遠いでしょう?」
「遠くて結構だ。別に女を侍らせようとも思わねえ。……くっ……」
「滝川どの、下がっておれ。ここはわしと弥五郎が戦う!」
「てめえらは信玄を撃つ役だろうが! ……信玄を探せ、山田! 本物は絶対にこの武田軍のどこかにいるはずなんだ! それを探して撃ち抜け!! やれ!!」
「撃ち抜け、と言われても……!」
俺は右手に目をやった。
野田城を取り囲んでいる武田軍。
ところどころに炊かれている篝火のおかげで、チラチラと人影は見えるが、あの中にいる本物の信玄を、いまから見つけて狙撃するなんて……!
「信じてるぜ、山田。……この女は死んでもこのオレが食い止める!」
「二度も刺されたいのですか!? 馬鹿な男――うっ!?」
滝川一益と未来が、二度目の戦闘に入ろうとした瞬間、彼女を背後から襲った、ふたりの男がいる。――和田さんと、次郎兵衛だ! ふたりはくないを持って未来の背中を突き刺そうとして、しかしすんでのところで、かわされた。未来は「ちっ」と舌打ちしながら、体勢を立て直す。
「間に合ったようでござるな」
「滝川のアニキ。あなた様がいなくなったら、あかりちゃんが悲しむッスよ。死んでも食い止める、なんざ軽率に言わねえでくださいよ」
「ば、馬鹿野郎。あの子はもう、ひとの女房だろうが。オレとは別に……」
「ひとの仲とは、惚れたはれただけではなかろうぞ。ただただ純粋に、大切に想い合う仲もあるはずだ。……つまりだ。そうそう死ぬなどと口走るなということだ。……これは、山田うじから言われた言葉でもあるがな」
和田さんに言われて、俺はハッと気が付き、そしてニヤリと笑った。
かつて、白井河原の戦い――そう、和田さんが死ぬはずだったあの戦いで、和田さんと俺は語り合った。
――山田うじ、逃げよ。そなたたちの逃げ道は、それがしが命がけでも作るゆえ。
――和田さん、そういうのはもう言いっこなしですよ。そんなに死ぬ死ぬ叫ばれたら、さっき和田さんを命がけで助けた伊与だっていい気持ちはしませんよ。
「全員で生きて帰る。信玄入道も殺す。それがそれがしの望みじゃ」
和田さんは滝川さんに手ぬぐいを投げて寄越した。
これで止血して、あとは下がっていろ、という意味だろう。
和田さんと次郎兵衛が、揃って未来に向けて構えた。
「弥五郎、ゆくぞ」
「ああ」
和田さんたちがこうまでして作ってくれたチャンスだ。
俺は生かさなければならない。信玄を見つけ出し、いまから狙い撃つ。
ピィー……ピィーッ……!
呼子笛が、まだ鳴っている。
俺と藤吉郎は、その場で目をこらして、武田軍全軍を見回した。
だが、敵の数は多すぎる。30000にも達する武田軍だ。ここから見えるのはせいぜい数百人程度だが、それでも多い。この中に信玄が本当にいるのか?
「おる。信玄は必ず」
藤吉郎は断言した。
「弥五郎、信玄の立場になってよう考えてみることじゃ。
信玄はまだ呼子笛の正体を、突き止めてはおらぬ。野田城内に未来たちを放ったとはいえ、その未来たちもまだ帰ってきていない。城の中の様子、謎の音の正体、気になって仕方がないはずじゃ。
それを確かめるために、信玄は必ず野田城に近付いている。
つまりここから見えるどこかに、信玄は必ずおる!」
「さすがは藤吉郎。敵の心根を手に取るようなことを言う」
「そうじゃろう、そうじゃろう。わしは天下の大将軍ゆえな。さあ、あとは信玄を見つけて撃つだけよ!」
「そうは参りませんことよッ! 弥五郎さま! ……くッ!?」
未来が、二刀流で襲ってくる――そこを和田さんと次郎兵衛が食い止めた。
「それがしたちを、あまり舐めるな!」
「あっしだって、修羅場をくぐり抜けてきたんスよ!」
和田さんと次郎兵衛が、躍るようにくないを振り回し、未来と戦う。強い。未来は強い。二人がかりで食い止めるのがやっとだ。だがその二人は、俺にとって、とてつもなく頼もしい二人であった。
「頼むぜ、二人とも……」
「信玄はどこにおる。どこに――」
俺と藤吉郎は、ふたりで武田軍の中に目をこらす。
夜でよく見えない。信玄はどこだ。どれが信玄だ。明かりが欲しい。光が欲しい!
一瞬でもいい、戦場を太陽が照らしてくれたら――だが、朝が来て戦場が明るくなれば、俺が信玄を狙っていることがバレてしまう。ええい、悩ましい。なんとか、なんとかならないか――
「光よ」
藤吉郎が、ぽつりと言った。
「光じゃ、弥五郎。光で武田軍を照らせば」
「なに!?」
「和田どのっ――」
藤吉郎は振り返り、未来と交戦中の和田さんに向けて声を張り上げた。
「焙烙玉じゃ! 焙烙玉を、ここからで良い、空に向かって放り投げてくれ!」
その言葉だけでよかった。
藤吉郎は自分の考えを言葉にしなかったが、和田さんは藤吉郎を信頼していた。彼は「承知!」とのみ答え、ふところから取り出した焙烙玉に火を点ける。それを見た未来が「させない!」と和田さんを襲ったが、そんな未来を、次郎兵衛がひとりで防ぐ。未来も連戦に次ぐ連戦で疲弊しているとはいえ、滝川一益さえ傷つけた未来を、次郎兵衛が、たったひとりで!
「こ、この身の程知らずの雑魚のくせにっ……!」
「小娘、吼えるな。――あっしは、神砲衆の、次郎兵衛だっ!!」
その吼声と同時に、和田さんが「木下うじ、投げるぞっ!」と、点火した焙烙玉を投げた――
夜空に――
どぉん、という音と共に、わずかな光が――
閃光弾のように、戦場を照らした。それは数秒の時間。だが、その時間で充分だった。
「弥五郎、あれじゃ! ――赤武者の後ろの後ろッ、黒具足!」
藤吉郎が指で、その場所を示しながら、叫んだ。
赤武者、そう例の信玄の影武者の後ろ、のそのまた後ろに、黒い具足を着込んだ、痩せた男が立っていた。――その男は、焙烙玉の光に見入っている。
「あやつを撃て!」
「心得た!!」
藤吉郎の言葉である。
俺は完全に彼を信頼して、引き金を引いた。
弾丸が発射された。風を切り、音を出し、武田信玄の首に向かって。
その距離、287メートルと21センチ。命中した。まだ弾丸は信玄に当たっていないが、手応えはあった。確実に殺せた。
このころになると、俺にも藤吉郎の考えが完全に理解できていた。
焙烙玉を投げることで、戦場を一時的に照らし出す。これで信玄を見つけ出す作戦だ。
ここまでは分かる。――ではそもそも藤吉郎は、なぜあの黒具足の男を信玄だと、一瞬で見抜いたのか?
「一番早く反応しおった」
藤吉郎が言った。
「これだけ数がおる武田軍の中で、あの黒具足が、もっとも早く、焙烙玉の光を見て顔を上げておった」
――弥五郎、信玄の立場になってよう考えてみることじゃ。
先ほどの藤吉郎の言葉が、俺の脳内で反すうされる。
戦場でもっとも必死なのは、大将だ。いくさに負けることで失うものが大きいからだ。
そして必死ゆえに、戦場に動きがあれば、一番早く反応する。反射的に動いてしまう。それが名将であればあるほど、だ。
武田信玄は、名将であるがゆえに。
焙烙玉の光にもっとも早く反応してしまい――
その結果――
「ああッ!?」
未来が、吼えた。
再び、おぼろげにしか見えなくなった野田城の周囲。
だが、見えた。赤武者の後ろで、具足を着込んだ男が、ゆっくりと倒れていく。
背中が、かつて川中島で見た風林火山の背中が、地べたをなめた。弾丸が、急所に命中したのだ。
「お、お屋形様ッ……、お屋形様っ!!」
先ほどとは打って変わって、悲痛な叫び声をあげる未来。
その声で、完全に確信した。――俺は信玄を撃てたのだと。
「ああ……お屋形様、そ、そんな、そんなっ……!」
がっくりと、その場に崩れる未来。
そこへ、
「おう、カタがついたみてえだな」
前田利家が、ゆっくりとやってきた。
彼の後ろには、明智光秀、佐々成政、それに伊与まで立っている。
全員、刀にべっとりと血がついていた。あれは武田忍者たちの血だろう。みんなが全滅させたらしい。
「信玄を殺せたのか。……まったく、ひと一人が死ぬことが、本当に、これほど嬉しいとは……」
「俊明。……滝川さまは、お怪我をされているのか?」
「ああ。早く城内で手当をしてやってくれ」
「それならば、この内蔵助が肩を貸そう」
「す、すまねえな、佐々……」
佐々成政に連れられて、滝川一益はこの場を去った。
去り際、彼はチラリと未来を見たあと、ぽん、と次郎兵衛の肩を叩いて、
「お前、やるようになったな。もう完全に一流だ」
「いや、滝川さまや和田さまが戦ったあとだったから、あっしでもやれたんで……」
「謙遜するな。もう純粋な忍びとしては、オレよりお前が上かもな」
そう言って、滝川一益は本当に野田城内へと消えた。
次郎兵衛は、ちょっと嬉しそうだった。俺はニヤッと笑って、彼の肩をポンポンと叩いた。
神砲衆の次郎兵衛だ、か。……俺も嬉しいぜ。
「弥五郎、瞬時にわしの考えを見抜いてくれて、ありがとうのう」
藤吉郎が、これまた笑顔で言った。
「長い付き合いだ。それくらい、分かるさ」
「さすがは相棒よ。わしゃ嬉しくてたまらんわ! ……さて」
藤吉郎は、ざわつく野田城の周囲と、さらにその場に突っ伏して、もう声も出せないらしい未来を見ながら、
「これから、こやつらをどうするか、じゃな」
どこか、達観したような口ぶりで、そう言った。
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