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第四部 第四十八話 女と恥さらし
野田城を取り囲んでいる武田軍は、急速にざわつきだした。
足軽たちの声が、城内にまで届いてくる。
「信玄が撃たれたことが、兵たちの間に広まりだしたのさ」
「五右衛門! 戻ってきたのか」
振り向くと、そこには五右衛門が立っていた。
彼女は、ニヤリと笑うと、
「これで武田軍の士気はガタ落ち。表向きは、あくまで撃たれたのは影武者ってことに、しておくみたいだが、さてどうなることか」
「こうなった以上、我々はすぐに岐阜に戻るべきですな」
明智光秀が言った。
「せっかく信玄を殺しても、誰も知らないのでは意味が無い。岐阜に舞い戻り、弾正忠さまにお知らせし、そして日ノ本中に信玄の死を触れ回らねばならぬ」
「明智どのの申される通りじゃな。信玄死す。信玄撃たれる。この一報を敵味方すべてが知ることで、織田家と徳川家の士気は上がり、武田家は総崩れとなるじゃろう」
藤吉郎も、明智光秀の意見に賛成した。
ふたりの言葉に、誰も異議はなかった。
これで決まりだ。俺たちが次にやるべきことは、野田城を脱出して、岐阜に戻り、信長に信玄の死を知らせ、そして信玄の死を世間に触れ回ることだ。
「だが、問題があるぞ、俊明。
信玄を殺したとはいえ、武田軍30000はまだ健在なのだ。この武田軍が取り囲んでいる野田城内からうまく脱出できるかどうか。まして竹中半兵衛さまや滝川久助さまのように怪我人もいるのだからな。
また、武田軍は引き続き、野田城を攻撃してくるかもしれない。この野田城を見捨てて、我々だけ逃亡していいものかどうか?」
「脱出はそう難しくねえさ。この石川五右衛門いる限り、逃げ出す算段などいくらでも立てられる」
五右衛門が、胸を張って言った。
さすが、野田城と武田軍の間を好き放題に移動する元泥棒。彼女ができるというなら、なんとかできるのだろう。
また、野田城を見捨てていいのか、という問題だが、それについては、野田城主の菅沼定盈さんがやってきて、
「そこはお気になさらずに、どうぞ脱出してくだされ」
と、力強く言ってくれた。
「信玄が死んだとあれば、この城を攻める武田軍の攻撃も必ず弱まる。いずれ武田軍は撤退するでしょう。……山田どのたちは一刻も早くこの城を脱出し、武田信玄死すの情報を織田さまにお伝えくだされ」
「…………」
菅沼さんの言葉を聞いて伊与は、ちらりと俺のほうを見た。
俺は、無言でうなずいた。大丈夫だ、という意味だ。
事実――
野田城は、このあとも武田軍の攻撃を受けて、けっきょく1ヶ月後の2月15日に落城する。そして菅沼さんは武田軍に捕らえられてしまう。
だが、信玄の死によって武田軍はやがて退却を開始。
そのとき菅沼さんは解放され、徳川家に戻るのだ。
だから俺たちが逃げても、菅沼さんや野田城の兵たちは大丈夫なのだ。
「それでは方針は決まりだな。早急に野田城を脱出し、岐阜に戻ろう」
伊与の言葉に、その場にいた全員がうなずいた。
最後に、残る問題は――
「…………
…………
……………………」
……未来。
俺の前で、縄によって縛りつけられている彼女。
黒装束に包まれたその五体が、二重三重に縛られているその姿は、敵ながら痛々しかった。
「山田どの、どうなされる」
明智光秀が、冷たい瞳を俺に向けた。
初対面のときからそうだが、このひとの目はどうしても、あまり好きになれない。
いずれ本能寺の変を巻き起こすひとだから、という俺の歴史知識があるためかもしれないが――
「このような女忍者、ただちに斬るのが上策と思われるが、――ひと責めして、武田の情報を吐かせるという手もござるぞ」
「…………」
ひと責め、という言葉を聞いて未来は、少しだけ眉を上げた。
だが、それでも彼女は、涙も流さず、ただ沈黙を保っている。
「いずれにせよ、この女、山田どのとは旧知の仲と聞く。ならば責めるも殺すも、貴殿にお任せする」
「オレっちは殺しておくべきだと思うぜ。この女は手強い。滝川どのや和田どの、それに次郎兵衛でも手を焼く女だ。逃がせばのちのち、禍根となる」
前田利家の言葉はもっともだった。
明智光秀の、責めて情報を吐かせるというのも、考えとしては分かる。
だが。……だが俺は。……とにもかくにも、未来と話がしたくて、
「未来」
低い声を、出した。
「……」
未来は、俺に目を向ける。
「……未来。……俺に……なにか言いたいことはあるか?」
「山のように」
未来は、冷たい声で言った。
「あなた様は飯尾家と松下家に出入りし、わたくしの父をあざむき、間者の役割を果たした。……結果として、あなた様のために飯尾家は、大名の今川家は亡びた。……それだけでも憎い。憎いのに。……あなたは、あなた様は……」
「…………」
「あなた様は、わたくしのことなど覚えてもいなかった。わたくしのことなど、視界の中になかったのでしょう。それが歯がゆい。本当に腹が立つ。憎い。わたくしはあなた様を心からお慕い申し上げていたのに。わたくしはあなた様を心から恨んでいたのに。殺してやりたいと何度も思ったのに。……それでもあなた様は、わたくしのことなど眼中にもなく。……商って、戦って、ただおのれのためにまっすぐ生きて」
声が、かすかに震えていた。
しかし未来は、泣いていなかった。
まるで、涙も涸れ果てたと言わんばかりに。
「あなた様の立志伝の中に、わたくしの存在は、毛の先ほども存在していなかったのですね」
その言葉は、俺の心に効いた。
愛した相手から、また憎んだ相手から、まったく相手にもされずに無視される。
それがどれほど悔しく、歯がゆく、屈辱的なことであるか。……前世で、敗者の身分だった俺にはよく理解できた。
好かれるのは、嬉しい。
嫌われるのは、悲しい。
だけれども、無視されるのは――ただただ、辛く、悔しい。
誰からも無視されて、孤独の果てに命尽き果てた、剣次叔父さんのことも、頭に浮かんだ。
「弥五郎さま。お斬りください」
未来は、疲れ果てたように言った。
「願わくば、あなた様の立身出世の果てに、飯尾家の未来が、怨敵として回想されますように。……わたくしを、せめて、憎んでくださいませ……」
「……未来」
俺は、彼女を直視することができず。
ただそれでも、……未来だけは、俺がその好意に、いや存在に気が付くこともできずに苦しめてしまった女性は、俺がこの手で殺さねばならないと思い、……腰から脇差を抜いた。
「未来。俺は忘れない」
「ありがとうございます」
「さよならだ。縁があったら来世で会おう」
「はい。……!」
「……ごめん!」
俺は脇差を振りかぶり、未来の首を打とうとして、――そのときだ!
がっし。
と。
何者かが、俺の右腕をつかんだ。
誰だ!? 驚いて振り向くと、――それは藤吉郎だった。
「藤吉郎!? なにをっ……!」
「この女は、もうなにもせぬよ。……解き放っても、差し支えあるまい」
「い、いや、しかし――」
「殺すことはにゃあで」
真顔であった。
俺の右手を、すごい力で掴んできている。
「弥五郎。ここで未来を殺せば、汝はきっと後悔する。それが目に見えとる。……これ以上、殺してどうなる? もはや降伏した者を。汝に惚れておる女子を」
「藤吉郎、そりゃ甘え。ここで殺しておかねえと、未来はまたオレっちたちの敵になるかもしれねえんだぞ!?」
「又左、大丈夫。この女はもう戦えぬ。わしはこれでも、人の見る目はあるつもりよ。……未来よ。このたびは解き放つゆえ、もう二度と、弥五郎に、織田家に、害をなすでないぞ。のう?」
「……木下藤吉郎……」
未来は、信じられないものを見るような眼差しで、俺と藤吉郎を交互に見比べた。
「……弥五郎、さま……」
そして彼女は、俺の前で、涙を浮かべた。
「……わたくしは……わたくしは……」
「未来」
俺は、なにを告げるべきかしばし迷い、やがて脇差をサヤに納めると、未来の縄をほどき、そして彼女へ手を伸ばした。
「すまなかった。……すまなかった」
「……ずるい。ずるいでしょう、そんな、あなた様から、そんなお言葉……」
未来は、ぐいっと、手の甲で涙をぬぐうと、
「……弥五郎さま。…………弥五郎さま……」
二度、俺の名前を呼んだ。
翌朝、俺たちは野田城を脱出した。
いや正確にいえば、脱出ではない。
抜け出すことに、五右衛門の策はいらなかった。
俺たちは野田城の裏門から、ごく普通に出たのだ。
「誰だ、野田城の者か!?」
城を取り囲んでいる武田軍が、数名、俺たちのところへやってきて槍を向けてきたが、そのとき未来が、そっと俺たちの前に立ち、
「武田のお屋形様より密命を帯びた、忍びの未来と申します。お疑いならばこれを」
そう言って、武田家の家紋が入った印籠を兵たちに見せつけた。
なにしろ印籠は本物である。兵たちはざわつき、失礼しました、と言って後ろに下がる。こうして俺たちは悠々と、野田城を脱出したのだ。
未来が印籠を見せたことは、すぐに武田家の上層部に伝わるだろう。
裏切りの露見は早いに違いない。俺たちは急いで、野田城から離れた。
怪我人である半兵衛は蜂須賀小六が、滝川一益は次郎兵衛がそれぞれ背負う。
俺たちはとにかく走った。幸いにも、徳川領まではそう遠くない。
「松下嘉兵衛さまは、ご無事かのう」
藤吉郎が、何気なくつぶやいた。
「手はず通りなら、浜松城に戻っているはずだ。大丈夫、あのひとは強いから」
「そうじゃな。……わしらはまず自分たちの心配をせねばのう」
やがて10分も山道を走ると、小さな沼が現れた。
そして沼の横にたどり着いたとき、未来が突如、歩みを止めた。
「どうした、未来」
「ここで、おさらばでございます」
「なに?」
「命を助けていただいた礼は、先ほどの印籠でお返ししました。……ここから先は、どの家にも属さぬ、裸の未来として生きとうございます」
そう言って未来は、武田家の印籠を沼の中へと放り投げた。
「未来。神砲衆へ来てもいいんだぜ?」
「それはご勘弁を。仮にも今川と武田の家中にいたわたくしが、今日からのこのこと織田信長の傘下に入る気にはなれません。それに」
未来が、チラリと伊与を見て、
「あなた様が、堤伊与や蜂楽屋カンナと築き上げた家庭を目の当たりにするのは、女心にはきつうございます」
「あ。……す、すまない」
「本当に、おなごに疎いお方」
未来は、どこか寂しそうに、けれども、初めて見る穏やかな笑みを浮かべて、
「しばらく、ひとりでゆこうと思います。……どこか遠い空の下で、弥五郎さま、あなた様のことを思うことに致しましょう。……それが愛なのか憎しみなのかは、わたくしにも分かりませんが」
未来はそう言って、……ついに俺たちに背を向けて、
「本当におさらばでございます。弥五郎さま、皆さま、……木下藤吉郎さま。お元気で」
朝焼けの世界の中を、走り去っていった。
早い。その背中はあっという間に豆粒になり、そして見えなくなった。
「山田。藤吉郎。……オレっちはまだ、納得してねえぞ」
前田利家が、低い声で言った。
「未来を生かしたことだ。敵だからってこともあるが、……ありゃ、生き恥だぜ。殺してやったほうが、あいつのためだった」
「生き恥など、男の考え……」
伊与が、前田利家に向かって告げた。
「愛する者のために、生きることを選ぶ女の気持ち。……私には分かる……」
「主を裏切っても、か? ……裏切っても、恥を晒しても、生きるのか。……女は……」
「…………。急ごう、みんな」
俺は、回れ右をした。
未来とは、まったく正反対の方角へ足を向ける。
「まずは岡崎。そして尾張。最終的には、岐阜へ。……帰ろう、俺たちの国へ」
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