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第四部 第五十一話 羽柴藤吉郎秀吉
「いよう、弥五郎!」
足利義昭が敗北した翌日の朝。
主を失った槇島城の中において、俺は藤吉郎と出会った。
「こんなところにおるとは、さては汝も殿様からお呼び出しじゃな?」
「その通りさ。……公方様(義昭)はもう、この城にはいないんだよな?」
「さて、わしにも分からん。戦のどさくさで、大和あたりに落ち延びたかもしれんのう」
藤吉郎は、ニコニコ笑いながら、しかし冷たい声音で言った。
もっとも藤吉郎に限らず、織田家臣団はみんな、義昭には冷酷だ。
無理もない。織田家が総力をあげて征夷大将軍の座につけた将軍が、織田家に逆らってきたのだから、名目はどうあれ、人情としてはカンに触るのが当然だ。
さて俺と藤吉郎は、槇島城の一室内にいた信長の御前に登場した。
信長は、小姓ひとりのみを従えた軽装で、
「公方様が、落武者狩りに遭われた」
と、言った。
「公方様は、我らに敗戦したあと、山城枇杷荘に向かって落ち延びたが、途中で落武者狩りに遭って身ぐるみをはがされた。いまや八方塞がりでどうにもならぬ、ということだ。……それで、当方に護衛をつけるように依頼してきた」
「依頼!? 当家と矛を交えておきながらあの公方! 殿様に護衛を依頼してきたんですかの!?」
藤吉郎は、さすがに仰天したようだった。
これまた無理もない。落武者狩りにあったからといって、つい昨日まで戦っていた相手に助けを求めるとは。
俺はこの歴史の流れを知っていたので、驚かなかったが、藤吉郎は目を見開いてしまっている。
「彼奴はなにを考えておるんじゃ。情けない。武家の棟梁たる征夷大将軍がこのざまとは!」
「藤吉郎、口を慎め。腹が立つのは余も同様じゃが、それでも公方様は公方様よ。……余は公方様に護衛をつけることにした。その護衛を、山田、そちの神砲衆に頼みたい」
連戦に次ぐ連戦で、さすがの織田家も現在、兵が疲弊している。
こうなると、織田家の補給部隊を務めていた神砲衆のみが現在、戦力として機能するわけだ。
「承りました。しかし公方様を御守りするとして、どちらまでお連れすればよろしいのでしょうか。京の都でしょうか」
「いや、……公方様は、畿内のどこか別の城へ向かうことをお望みだ。都にはまだ、戻りたくないと仰せである」
「そりゃ、そうでしょうなあ。公方様が殿様(信長)と戦をしたからこそ、都は焼き討ちになったのじゃ。そこへノコノコと戻ってくるのは、いかに面の皮が分厚い公方様といえど、できませんわなあ!」
「藤吉郎、口を慎めと申しておる。これ以上の公方様への侮辱は、信長が許さぬぞ」
「へっ。……申し訳ございませぬ」
藤吉郎は、信長に叱られてさすがに顔を暗くして、平伏した。
信長は、うなずいた。
「そちの気持ちもよう分かる。しかし、公方様は公方様じゃ。どこまでも、第15代の将軍様であられる。……いまの当家を取り囲む情勢を鑑みても、公方様には気を遣わねばならぬのじゃ」
信長の意見は道理だった。
武田信玄が没したとはいえ、まだ浅井・朝倉の両大名は健在であり、本願寺勢力も油断がならない。さらに、信玄が死んだといっても大名としての武田家はなお存在し、同盟軍の徳川家は、先日の三方ヶ原決戦で大打撃を受けたままだ。
信長包囲網は、なお健在なのだ。
ここで足利義昭から引き続き、露骨に政敵認定されるのは、得策ではないのだ。
だからこそ信長は、この期に及んでも義昭に気を遣い、なんとか『将軍足利・家臣織田』の体制で権力を保ちたいと思い続けている。
それに――
「余が考える天下布武は、あくまでも室町の権威の下で、日ノ本を静謐に導くことだ」
信長は、静かに言った。
「あのとき、そう、10年以上前に、そちたちと共に上洛し、義輝公のご尊顔を賜ったときから、余の願いは一貫しているのだ」
信長は、室町幕府の崩壊を、望んではいなかった。
あくまでも、幕府の名のもとで、天下を泰平に導きたいと。
そう思っているのだった。
俺たちは信長の御前から、退出した。
部屋を出ると、伊与が控えていた。
俺は神砲衆を連れて、義昭を迎えにいく旨を彼女に伝えた。
「公方様をお迎えするのであれば、輿が必要だな?」
「そうだ。カンナに言って、すぐに準備をさせてくれ」
「心得た」
伊与はすぐにうなずいて、準備を開始した。
藤吉郎は、そんな伊与の後ろ姿に視線を送りながら、――口ではまったく別のことを言った。
「我が殿は、甘すぎるんじゃ」
吐き捨てるかのような口調だった。
「いまの公方に――足利義昭に、なんの価値がある。恩は知らず、弱者をいじめ、都を戦火に巻き込んで、主上(皇室)に対する敬意もない。まして戦までヘタクソで、自身に誇りさえもっておらぬ。……織田軍に完敗しておきながら、落ち武者狩りにあったから織田軍に護衛を依頼する? ふん、これが征夷大将軍の有り様か。情けなや。まったく情けなや! こんな公方様の下では、天下布武など絵に描いた餅じゃわ!」
「藤吉郎。……声が大きい」
「わしが大声なのは昔からじゃ。いまさら誰も驚かんわ!」
今日の藤吉郎は、とにかく機嫌が悪い。
信長の前でさえ、あの態度だったのはさすがに驚いた。
義昭が嫌いなのは俺も同じだが、相棒がこうも立腹していては、俺としてはなだめる側に立つしかなく、
「公方様への悪口は、殿様への悪口も同様だ。あまり言い過ぎるな。殿様も本当にご不快になられる」
「言われるまでもない。そんなことは分かっておるわ。しかし……!」
「とにかく公方様のところへ向かおう。お役目を果たそうじゃないか。……この城にいる神砲衆は80人。全員、鉄砲を持っている。護衛としては充分だろう」
「…………」
俺がそう言っても、藤吉郎はなお、不機嫌が顔に出ていた。
その後、俺と藤吉郎は、伊与と神砲衆を率いて出立した。
いま義昭がいるのは、河内国の津田という場所らしい。
俺たちはその場所に向かって進軍し、夕方には津田にたどり着いた。
池のほとりに、小さな小屋があり、その小屋の周りに数人の、薄汚れた侍がたむろしていたので、そこが義昭のいる場所だとすぐに分かった。俺と藤吉郎は、侍に接触すると、その侍は、ふんぞり返って言った。
「公方様は、河内、若江城に移ることをお望みである」
若江城は、義昭の妹婿である三好義継の城だ。
「若江城とは、ずいぶん南のほうへ行かれるんですのう」
藤吉郎は、へらっと笑いながら言った。
藤吉郎なりに、場の空気を和ませようとしたのだろうが、侍はそれが気に入らなかったのか、
「そうだ、南だ。公方様の警護ができる光栄を身に染みて、よく役目を果たすがよい。……それでは早速参るぞ!」
早口でそう言って、もう俺たちには顔も向けなかった。
「あいつは何者だ。ずいぶん偉そうに」
この侍の態度には、伊与でさえ腹をすえかねたのか、小声で毒を吐く始末だった。
俺は、そんな妻を「まあまあ」となだめながら、用意してきた輿へと入る足利義昭をちらりと眺めた。
「…………」
義昭も、俺たちに目も合わせようとしなかった。
義昭と俺は、かつて、越前の小さな森の中で出会った。
そのときの義昭は、忍びの旅だと言って、俺や藤吉郎の前でも気さくなところを見せていたが、しかし今日の義昭は別人のように冷たい態度で、俺たちになにも言わなかった。
それがこのひとのプライドなんだろうか。
役目は、滞りなく終わった。
義昭を若江城に届けると、三好家の侍が登場して、「ご苦労に存ずる」と、こちらはやや慇懃な態度で俺と藤吉郎を労苦をねぎらった。義昭本人は、輿のまま若江城に入ったので、ついに俺たちの前には姿を見せなかった。
俺たちはその日のうちに、京の都に戻り始めたが、すでに日が沈んでいたので、街道の近くにあった古寺に宿泊することにした。宿泊代は、俺たちが保有していた兵糧である。
その日の夜のことだった。
神砲衆の兵たちも、伊与もぐっすりと寝入ったあと、
「わしは苗字を改める」
ロウソクの炎に照らされながら、藤吉郎は、ふいにそんなことを言い出した。
俺は、あまりに突然のことだったのでさすがに驚いた。
「どうして、そんなことを……?」
「理由か。……そうさのう。まず、わしはすでに武将として名をずいぶんあげた。あの日、大樹村で誓った、木の下の誓いを忘れてはおらぬ。じゃが、わしもそれなりに巨大な樹木となってきた。……いつまでも『木の下』ではなかろう。誰かに見上げられる、大樹のごとき存在になりたいと思う」
「それは――分かる。藤吉郎もずいぶん出世したからな。……お前は気に入らなかったようだが、公方様の警護、このお役目だって凄まじいものさ。あの大樹村の誓いのとき、藤吉郎は薪炭奉行の下で働く小者であり、俺は炭売りとして駆け出しにもなっていなかった若僧だった。それが将軍様の警護役とはな」
「互いに、齢を重ね、身を上げたものよ」
藤吉郎は、目を細めて言った。
だが、かと思うと、藤吉郎はすぐに目を鋭くさせて、
「じゃが、ここで満足するわけにはいかぬ。わしらの願いは天下の安寧。そうではないか、弥五郎」
「その通りだ」
「……うむ。……わしは前から、苗字を改めようと思っておったが、その公方様の警護を今日、務めることで、いっそう改める決意がついたのよ」
「と、いうと……」
「わしは足利が嫌いじゃ」
ずばりと、藤吉郎は言った。
「初代・尊氏から15代も血筋を重ねて、権力者として辣腕をふるえる立場に幾度もありながら、結果として今日の日ノ本は荒れに荒れ果てた体たらく。何百年、こういう世相を続けるつもりじゃ。
挙げ句の果てには今日の義昭の無様さといったら、どうじゃ。将軍の血筋というだけで、落ち武者の分際でありながらその家来まで下に威張りちらし、大恩ある我が主、織田信長様に向けた無礼の数々。……殿様は、信長様は義昭に向けてなお、忠義を尽くすつもりらしいが、わしは違う。義昭など、いや足利など、名門というだけで権力の立場に座りくさる連中など、――大嫌いじゃ」
「…………」
あまりにも強烈な足利批判に、俺は口をつぐんだ。
「ゆえに、苗字を改めるのよ。この世に存在もしなかった、源平藤橘の由来さえもたぬ男が、新たなる苗字を創出し、その苗字が天下の大将軍となり、新たなる秩序をこの世にもたらす。足利がどうした、足利なんぞ古くさいだけの名前じゃとばかりに、新しい苗字が世に忽然と登場するのじゃ。それが時代の変化に繋がる!
そういう意味で、木下では駄目なんじゃ。先ほども言うたが『木の下』では弱い。それに、木下という苗字は伊勢や摂津や常陸、さらには九州のほうにも存在すると聞く。その連中と同じ木下と思われては、我が夢は叶わぬ……!」
「この世に存在しなかった新たなる苗字が、登場か。……面白い! 面白く聞こえるぞ!」
木下藤吉郎が、このころ、苗字を改めるという事実。
俺はその歴史的事実を知っていた。知っていたはずなのに、当人から聞かされると、不思議と気持ちが高揚してきた。そして、
「それで、木下をやめて、なんという苗字にするつもりだ? 藤吉郎」
「聞きたいか。……ふふっ、ははは!」
藤吉郎は、嬉しくてたまらないといった顔で、――やがてフトコロに手を突っ込み、紙を取り出した。その紙には、黒々と、ずいぶん達筆な字で、その名が記されていた。
『羽柴藤吉郎秀吉』
「はしば、とうきちろう、ひでよし……」
「そうじゃ!」
藤吉郎は、ニコニコ笑いながら、
「天下は織田信長さまが布武される。その下には大将軍がふたりおる。ひとりは柴田勝家さま、もうひとりは丹羽長秀さま。このおふたりに苗字の一字をそれぞれ戴き、――新たなる苗字、羽柴を創出する! 大将軍、羽柴藤吉郎秀吉の誕生というわけじゃ! ふはははは!!」
「なるほど、確かに柴田さんと丹羽さんは家中随一の大将軍だ。殿様の覚えもめでたい。しかし、いくら柴田さんたちが優れた武将といっても、一字ずつ戴くとは……」
「こんな考え、誰もせんじゃろうが。羽柴なんて苗字、ふふ、見たことも聞いたこともないものよ。面白かろうが。百姓のせがれの羽柴将軍は、織田家の柱石となりて天下の静謐に尽くすがために大暴れするぞ! ……はっはっはっはっは……!!」
藤吉郎は、よっぽど自分の言葉が愉快だったのか、大笑いを続けていた。
あまりに笑い声が大きいので、伊与がむくりと起きて「なんの話だ……?」と寝ぼけ眼をこすり出した始末だ。
「おう、伊与。お初にお目にかかる。羽柴藤吉郎秀吉じゃ。これからよろしゅう頼むぞ。はっはっはっは……!」
「はしば、とうきち、ろう……?」
伊与は何度か目をまばたきさせて、やがて俺に視線を向けた。
伊与は、俺から聞いて知っていた。藤吉郎が、羽柴藤吉郎秀吉になることを。
ほら、見ろ。
俺の言った通りになっただろう?
俺は伊与に視線を返しながら、それでも相棒たる藤吉郎が羽柴の苗字になったことが、なぜだか俺もたまらなく愉快だった。
俺と藤吉郎が京の都に戻ったのは、7月22日の昼だった。
「役目、苦労」
信長は、短い言葉で俺と藤吉郎をねぎらった。
信長は忙しい。焼き討ちした京の都を復興させるために、京都所司代を配置し、その役目には家臣の村井貞勝を配置。さらに焼き討ちした上京の民には税金の免除を許した。民衆にとっては、もはや義昭よりも信長のほうが天下人であった。
そんな信長は、多忙な中でも、藤吉郎と話し合いの場をもったらしく、
「藤吉郎は、今後、苗字を改めるそうじゃ」
7月27日の会議の場において、家臣団の前でそう切り出した。
「藤吉郎は、今後、羽柴藤吉郎秀吉じゃ。申すまでもなく、当家の柴田と丹羽から一字すつ拝領して名乗る苗字よ。……ふふっ、皆の者、そういうわけで、今後は藤吉郎を羽柴と呼べ。良いな!」
「「……ははっ!!」」
俺も含めた織田家の家臣団は、全員、そう叫び、藤吉郎はニヤニヤしていた。
柴田さんと丹羽さんは、そんな藤吉郎を見て、薄い笑みを浮かべていた。自分たちを天下の将軍と認め、その苗字にあやかりたいと言われて、悪い気持ちがするはずもない。――こうして、羽柴藤吉郎秀吉は誕生したのだ。
「名を改めるといえば」
信長は、さらに言葉を続けた。
「余は主上にお頼みし、元号を改めてもらうことにした。以前より、元亀という元号は縁起が悪いと思うておった。この元号になってから、当家は包囲網を敷かれて良きことがまるでない。ゆえに、こちらも藤吉郎同様に改めるのじゃ」
「おお、この藤吉郎が苗字を改めると同時に元号も改めるとは。いやあ、元号がわしの真似をいたしまするか」
「たわけ。主上がそちの真似などするか!」
しゃしゃり出た藤吉郎を、信長は笑いながら叱り、そして改めて、
「天正――。明日より日ノ本の元号は天正じゃ。ことしは天正元年となる。織田家にとっても、実りの元年となるに違いない。いや、実りの年とするのだ。皆の者、左様心得よ!」
「「「ははっ!!」」」
信長の言葉に、家臣団一同は、大きく平伏したものである。
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第4部も、まもなく終わります。
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