第四部 第五十四話 城主、羽柴秀吉

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第四部 第五十四話 城主、羽柴秀吉

 それは小谷落城の2日後だった。  この日は、藤吉郎にとって、記念すべき日となった。  すでに浅井家の兵たちはことごとく腹を切り、あるいは降伏し、または捕らえられ、小谷城は織田軍によって完全に制圧されたわけだが、その城内において、 「羽柴藤吉郎」  信長は、小谷城の城主の間に藤吉郎を呼び出すと、あらたまった口調でそう言って、 「長きに渡る浅井攻め、骨折りであった。またそちは、信玄暗殺にも大功があった。思い返せば美濃攻めから金ケ崎、姉川など数々のいくさにおいて、そちは常に健気であった。働き、古今に比類なし」  信長は、めずらしく饒舌に藤吉郎を褒め称えた。  藤吉郎は「へへっ」とその場で平伏し、――はて、やたらと殿様の機嫌が良いが、むしろ怖いのう。これは逆に、なにかお怒りかもしれぬ――と、心の中ではいらぬ気を回していたらしい。  らしい、というのは、この信長と藤吉郎のやり取りを、俺はその場で見ていないからだ。  すべては、あとになって藤吉郎から聞いた話なのだ。  そう、――藤吉郎の出世の話を。 「よって、羽柴。そちに、旧浅井領を与えることにする」 「……へっ」 「むろん、小谷城も与える。織田軍は明日にも岐阜に引き上げるが、そちは小谷に残り、これから領土を治めるための役目を果たせ」 「は。――ははっ! は、……殿様、それはまことで……」 「くどい」  二言はない、とばかりに信長は低い声でそう言った。  と思ったら、すぐにニヤリと笑って、 「……驚いたか。藤吉郎」  悪童のような、いたずらっぽい顔を浮かべた、という。  尾張のうつけと呼ばれた時代から、信長はいたずら好きの性格があるが、今回もそうだった。藤吉郎の驚く顔を見て、信長は、なにやら愉快になってきたらしい。 「驚くであろうな。そちは今日より大名じゃ」 「はっ。……はっ、このわしが、大名に……小谷の城主に……」 「嬉しいか」 「そ、それはもちろん、嬉しゅうございまする!」  藤吉郎は、何度も何度も平伏し、信長を神であるかのごとく見つめて崇めた。元より信長好きの藤吉郎だが、このときは感極まりすぎて、自分でもわけが分からなくなるほどに頭を下げたらしい。 「尾張中村の百姓だったこのわしが、武将として諸国に名を馳せ、いま国持ちになろうとは、――これは若かりし頃より、弥五郎と誓い合って夢が叶ったのでございます。こんな、こんなに嬉しいことがござろうか――」 「ふむ、大樹村の誓いか。なるほど、卑賤のころよりの夢が叶い、さぞや望外の喜びであろう」  信長は、慈母のように目を細めた。  という。 「だが、そちと弥五郎の夢は、まだ大きいと聞く。天下に余すところなき泰平をもたらすのが、大樹村の誓いであろう?」 「ははっ。恐れながら我が主の旗の下、天下に――日の本すべてに武を布き平穏無事な世を作り出すことが、わしの弥五郎の誓いにて!」 「気宇壮大(きうそうだい)なことよ」  信長は、大笑し、 「よかろう。天下布武は余の夢でもある。……山田弥五郎には、織田家の商いをより大きく任せるつもりだ。そちと山田とふたりで、これからも余の考える天下のために、いっそう粉骨砕身励んで欲しい」 「ははっ!!」  藤吉郎は、再び平伏した。  信長は、また満足そうにうなずき、立ち上がり――すぐに告げた。 「では羽柴。そちには小谷を与えるが、それとは別にいまひとつ、役目を与える」 「はっ。……ははっ、なんなりと!」  信長は才ある者を多用する。  小谷城を与えたからといって、藤吉郎に「しばし休め」などとは言わない。 「いま口にした天下布武。その天下のために、そちにやってもらう仕事じゃ」 「ははっ。どのようなお役目で!」 「交渉よ」  信長は、そのとき、城の中だが、ふっと西に目を向けて告げたらしい。 「公方様が、……そう、あの公方様が、京の都に戻るために、毛利家を焚きつけておる。公方様は毛利軍を都に上洛させ、この信長を討ち滅ぼすつもりらしい。  だが、浅井朝倉を滅ぼしたばかりのいまの織田家には毛利と戦をする余裕など、ない。そこで藤吉郎、そちは毛利家、ならびに公方様と交渉するのだ。毛利家が都に攻めてこぬように。そして公方様には、ただ都に戻ってきてもらうためにな」  毛利家は、安芸国の戦国大名だ。  小谷城から見て西に位置する大名で、中国地方の大半を領土として有している、強靱な家なのだ。複数の敵と戦い続け。疲弊しているいまの織田家としては、敵に回したい相手ではない。  だから、信長が毛利家との戦を避けたいのは分かる。  だが、――それでも、足利義昭に戻ってきてもらいたいとは。  織田家に大恩ある身でありながら、織田家と対立することを望み、さらにいま、毛利家を動かして織田家を襲わせようとするとは。  藤吉郎は。  義昭が、嫌いである。 「……いまの殿様に、公方様がご入り用ですかのう……」  思わず、そう言ってしまったらしい。  その発言を聞いた信長は、目を剥いて、 「織田家が入り用かどうかは問題ではない。公方様がこの信長を入り用にしておられるかどうか、それが問題なのだ! 藤吉郎、そちももはや大名となったのであれば、将軍家への忠義を心に秘めよ。  よいか、余はやはり、天下はあくまでも足利将軍家のためにあると思っている。  余の夢は、かつて足利義輝公にお会いしたときに定まった。  どこまでも公方様のために忠節を尽くし、天下を平穏にすることが、この信長の夢であり希望である。  藤吉郎、左様心得て、今後も余に忠節を尽くせ! よいな!!」 「話にならぬわ! 公方様はなにを考えておられるのか!!」  信長の命令を受けた藤吉郎は、義昭のいる堺の町に入った。――そして激怒した。  堺の町のある寺の中である。織田家は交渉役として、羽柴藤吉郎秀吉と僧の朝山日乗(あさやまにちじょう)。さらに藤吉郎の護衛として俺と伊与がいる。俺は胸の中にリボルバーを入れ、伊与はいつでも短刀を抜けるように臨戦態勢だ。  そんな俺たちの前に、毛利家の使者として安国寺恵瓊(あんこくじえけい)林就長(はやしなりなが)が登場し、毛利家の意向を告げた。  毛利家としても、いま京の都を制し、浅井朝倉を討ち滅ぼした織田信長と戦をしたいとは思っていない。 「織田家と毛利家は、今後も友好を保っていくべきだ」  これは織田家と毛利家の間で一致した意見であった。  交渉の担当者である藤吉郎も、安国寺恵瓊も、異論は無い。  もちろん、この俺も。  だが。  話題が義昭のことに及ぶと、交渉はまとまらなかった。  というのも、義昭は、 「信長が、どうしても都に戻ってほしいというなら、戻ってもいい」  と言いつつも、 「だがその代わりに、織田家はこちらに人質を寄越してほしい。将軍家への忠義を示すには、人質こそが大事である」  そう告げたからである。  これについては、藤吉郎が心底から怒り狂った。 「将軍家は、我が主を愚弄するのも大概にせよ!! 我が殿が下手に出ていれば、つけあがりおって!!」 「羽柴どの。お怒りはごもっともなれど、相手は公方様でございます。いま少し、口を慎まれよ――」 「公方だからなんじゃ! 織田家や毛利家が手を貸さねば、その日の米にさえありつけぬ男が!!」  これが藤吉郎の怒りの根源である。  高貴な血筋だからなんだ。士農工商、どの働きもせずに、ただ公方の家柄というだけで、人間の上に君臨し、食い扶持を得て、威張り散らすのが当たり前だと思うな。――それは一介の百姓から小谷城の城主にまで成り上がった男の、そして、かつては強き者に蹂躙され、日々の食事にさえありつけなかった人間の、心からの本音であろう。  気持ちとしては、俺も藤吉郎に同意していた。  織田家の蔵に転がっていた、古いアワやヒエを食べながら、カンナと共に汗を流して行商に明け暮れていた人間の苦労は、天上の身分の者には決して分からないのだ――と憤っていたのだ。 「我が主がお優しい気質であることに甘えきったお方じゃ。恵瓊どのよ、公方様にようお伝えくだされ。羽柴秀吉はそちらの言葉、いっさい受け入れられぬ。一度、炉端の泥水で顔でも洗ってから出直してまいられよ! ……左様にのう!」 「短気を抑えてくだされ。そのようなことをされては、羽柴どのの立場もおかしくなりますぞ。織田様は、あくまでも公方様に忠義を尽くすお考えと聞きおよびますが――」 「構わぬ! 我が主には、公方様は死んだと伝えておく!!」  藤吉郎は、ツバを飛ばしながら立ち上がった。 「弥五郎! 伊与! 帰るぞ! もはや話にならぬわ!」  藤吉郎の怒りぶりに、俺と伊与は驚きながらも慌てて立ち上がり、さらにずっと無言だった朝山日乗さんまで立ち上がって、――部屋を退出した俺たちについてきた。  寺の廊下を進みながら俺は、――藤吉郎がここで足利義昭の要求をつっぱねるのは、知識として知っていたので、そういう面では驚かなかったが、――しかし目の前で繰り広げられた激怒ぶりには、さすがに驚愕していて、 「藤吉郎、いいのか? あそこまで言っては、恵瓊どのが申されたように、殿様もお怒りになるぞ」 「構わぬ!! ……殿様は、甘い。甘すぎるのじゃ!」  藤吉郎は、顔を真っ赤にしていた。  本気で怒っている顔だった。 「もはやあの公方では、いや足利家では天下は保てぬ。このままでは天下布武など絵に描いた餅! 日の本中の民のためにも、もはや足利など放り捨て、織田信長さまがみずから将軍になってまつりごとをしなければならぬ。……殿様はそれがまだ、お分かりになられぬ!」 「藤吉郎」 「殿様には覚悟をもっていただきたい。もはや美濃や尾張の織田家ではない。天下の織田家である。天下のための織田家である。天下静謐のための織田信長公である。……わしは、そう諫言するためにも、いま怒った!」 「……小谷を取り上げられるかも。……いや、切腹を申しつけられるかもしれませんが」  伊与が、静かな口調でそう言ったが、藤吉郎は再び「構わぬ!」と叫んだ。 「腹を切るのも覚悟の上じゃ。命をかけて諫言申し上げる。それが殿様のためであり天下のためならば――弥五郎、大樹村の誓いを果たすためならば、天下万民の平穏のためなら、わしはここで命がついえても構わぬのじゃ。  あの公方にいま一度、天下を渡せば、日ノ本の衆生は乱世でなお苦しむこととなる。そのような有様を防ぐために、わしは殿様に生命かけて諫言申し上げるのじゃ。……もはや足利はいらぬ。いらぬのですぞ、とな!」 「………………」  藤吉郎の憤慨は、想像以上だった。  命をかけて、足利家の天下を防ぐ。信長が頂点する日本にしなければならない。  それは、天下万民のために――あの日の誓いのために――  藤吉郎は。  どすどすと音を立てながら歩き、寺の奥へと消えていった。  俺と伊与と朝山日乗さんは、その後ろ姿を見送ったが、 「……羽柴どののお言葉を、そのまま毛利家と公方様にはお伝えできますまい」  朝山日乗さんは、穏やかにそう言った。 「拙僧の口から、もう少しやんわりと、恵瓊どのにお伝えしましょう。織田家としては、人質を出すことなど承服できませぬ、と」 「ありがとうございます。そうしてもらえると、とても助かります」 「しかし、羽柴どののお気持ちも分かります。……公方様はあまりに我儘(わがまま)にすぎる。織田さまも、そんな公方様に甘すぎる……」  朝山日乗さんは、あくまでも優しげに、 「ただ公方様や主に、盲信的に尽くすのではなく、命をかけて天下のためにと吼えられる羽柴どのは、まさに天晴れ。……見事なお方でございますな」  俺は、小さくうなずいた。 「俺は、もう20年も前からそう思っています」  その後、朝山日乗さんは、藤吉郎の言葉をもう少し柔らかくして、安国寺恵瓊に伝えた。  安国寺恵瓊は、何度も何度もうなずき「公方様にはそのように伝えておく」と告げて、――そして最後に、こう言ったらしい。 「織田信長公の時代は、これより以後、何年かは続く。しかし、いつかは転ぶかもしれぬ。……だが羽柴藤吉郎秀吉、あれは、あるいは信長よりも大きな器かもしれぬ……」  その後、足利義昭は、わずかな家来を伴い、――毛利家にも受け入れられず、紀伊国へと落ち延びたらしい。  義昭は、最終的には毛利家に庇護されるのだが、それはもう少しあとのことだ。
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