第四部 第五十五話 長浜の月夜

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第四部 第五十五話 長浜の月夜

 ――藤吉郎による義昭の追放から、1か月が経った。 「いよう、弥五郎!」  その藤吉郎が、俺に向けて、手を振っている。  俺も手を振り返した。  藤吉郎は隣に5人、侍を従え。  俺も背後に、神砲衆の部下を3人、従えている。  場所は近江国の今浜。  琵琶湖沿岸にある小さな集落だが、いまこの場所にはつぎつぎと木材や資材が運び込まれていた。  藤吉郎が、住むための城を築こうとしているのだ。  浅井長政の居城だった小谷城は、山の上にある。籠城にはよいが、日ごろの生活には不便だ。だから藤吉郎は、今浜に城を造ろうとしている。 「殿様からお呼び出しがあったときは、すいっと岐阜や京に向かわねばならぬ。そのためには小谷より今浜じゃ。ここからなら、馬や船ですぐに動ける。それに」 「商いにも便利、だろ?」 「その通り。さすがは弥五郎よ!」  俺の答えを受けて、藤吉郎は満足そうに笑う。 「長いこと、汝と商いを続けてきたわしよ。通商がいかに大事なことか、骨身にしみて分かっておる。……この今浜に港を築き、船と商人を集め、琵琶湖を中心とした商圏を築き、そうなれば我が羽柴家はいよいよ栄える。わしの考えておるのはそういう未来よ! ……弥五郎、むろん汝も力を貸してくれるな!?」 「当然。そのためにここにやってきた。殿様のお許しも、もちろん得ている」  藤吉郎の街作りに、神砲衆は全面協力だ。織田家の商圏を強力にして、天下布武をさらに推し進めるために、今浜開発は絶対に必要だ。 「そうだ、藤吉郎。殿様からもうひとつのお許しも得てきたぞ。今浜を、長浜、と改名する一件だ。ゆるす、というお言葉を頂戴してきた」  藤吉郎は前々から、今浜という土地名を、信長の一字を戴いて長浜と改名したいと言っていたのだ。 「おう、まことか! ……そうかぁ、そりゃめでたい! めでてえのう! うむ! よし! よしよしよし! それでは本日から、ここは長浜じゃ。よいか皆の者、長浜じゃぞお、はっはっは!」  藤吉郎は、周囲にいた自分の家臣たちに、大きな声で伝えた。誰もが「はっ」と頭を下げた。俺は、笑って、 「よかったな、藤吉郎。公方様追放の件で、殿様がお怒りにならなくて」 「……ふむ。まあ、わしもちと言葉がすぎたか、とは思っていたがの。しかし公方に向けた言葉、あれは間違っていたとは、いまだに思っておらぬよ」 「…………」 「足利の血筋というだけで、わけもなく人間の上に君臨し、他人の運命をきりきり舞いにさせる。そんな道理があってよいものか。……殿様とて、……織田信長公とて、その理屈はよう分かっておられる。聡明なお方ゆえの。だからこそ、殿様はわしを処分せんのよ」 「……そうだな。俺もそう思う。血筋というだけで、人間を支配していいことはない」 「そう。じゃからこそ弥五郎。百姓や炭売りのせがれたるわしらが、天下に名を馳せる意味があるのよ。血も家柄もクソ喰らえじゃ。これこそ下剋上よ。……のう?」  藤吉郎は、片目をつぶった。  愛嬌たっぷりの笑顔に、俺は引き込まれた。  この男の強く優しい弁舌に惹かれた、大樹村の誓いから、もう20年か。未来の知識があったとはいえ、俺もよくやってきた。心底、そう思う。……藤吉郎は国持ち。俺は織田傘下最大の商人。そうなったのだからな! 「……さあ、堅苦しい話はこれでしまいじゃ! 弥五郎、今夜は今浜、いやさ長浜に泊まってゆくじゃろう!? まだ仮の屋敷しかできておらぬが、そこで宴を開こうぞ! 琵琶湖で獲れた魚を、用意しておるでのう!」 「そりゃいい! 実はそうくると思って、岐阜からたくさん食べ物も持ってきたんだ。伊与たちに運ばせている。俺より少し遅れているが、もうすぐここに来るはずだ」 「なんじゃ、おらんと思うたが、しっかり伊与たちも来るのか! はっはっは、それはよい。今夜は久しぶりに昔の仲間で集まって、大はしゃぎといこうかのう!」  藤吉郎の笑顔は、このときばかりは本当に、昔、津島で集まったときのような、さわやかな笑みだった。  その夜は、久しぶりに、本当に久しぶりに主だったメンバーが長浜の仮屋敷に集まった。  藤吉郎に小一郎、さらに蜂須賀小六に竹中半兵衛。神砲衆からは俺に伊与、カンナ、五右衛門、そして、 「お久しぶりでございます、羽柴さま。このたびは北近江の主となられたこと、誠に祝着至極にございます」 「おう、懐かしい顔じゃのう。……あかり! 汝もそうやって、一人前のような口を叩くようになったか! はっはっは……!」  そう、もちづきやのあかりだ。  津島で、夫と共に宿を経営し、また時おり岐阜にやってきて、俺の子供たちの面倒を見てくれているあかりが、今日は伊与たちと共に長浜までやってきて、藤吉郎に祝いの言葉を向けたのだ。 「弥五郎。あかりには見えぬところでずいぶん世話になっておる。ここでひとつ、あかりと亭主に屋敷のひとつでもくれてやって、大きな宿をやらせてみてはどうじゃ」 「俺もそう思っていた。美濃攻めからこっち、ずっと走り続けたような日々だったが、やっと少し落ち着ける。……あかり、なにか望みのものがあったらなんでも言ってくれ。少しでもなにかをしてやりたい」 「ありがとうございます。羽柴さまと山田さまにそのようなお言葉をいただけただけで、充分、光栄の極みで――」 「あかり。そんなところで遠慮なんかせんとよ? 奉公した分だけ、褒美が貰えるのは当たり前なんやけん。旦那さんのためにも、家でも金でもしっかり(もろ)うときんしゃい」 「まったくだよ。弥五郎なんか、ずいぶん貯めこんでるんだから、この際しっかり黄金10袋くらい貰っておきな」 「それならば、私も少し褒美を貰いたいな。手持ちの刀もそろそろ寿命だ。これを機会に良き刀を揃えたいし、……堺で見かけた南蛮の硝子瓶も欲しい。『にょろっ』と変な形をしていて美しかったのだ」 「伊与さん、変な形をしているのが好きなのですか。硝子瓶ならば、美しい形のほうが良いと思うのですが」 「小一郎。おめえはまだ知らなかったか? 堤はな、これでけっこう、変なものを集めるのが好きなんだよ。趣味が悪いんだ。はっはっは……!」  伊与の『変わりものコレクター』ぶりが話題になるのも、久々なことだ。  全員がその場で大笑いして、伊与がむすっとした。「もういい、私の世界が理解できぬとは、みんなも感覚が老いたものだ」と軽口を叩いたので、またみんなが笑った。  そのときだ。 「お揃いのようでござるな。遅れてすまぬ」 「いや皆さま、どうもどうも。あっしがきましたぜ」  和田さんと次郎兵衛が、揃って入ってきた。 「和田どの。甲賀からはるばるお越しいただき、ありがとうござる」 「いやいや、羽柴うじと山田うじの誘いとあれば、やってこぬわけにはいかぬ。……久助(滝川一益)がおらぬのは残念だが」 「滝川さまは、明智十兵衛さまと共に京の都におられるそうです。わたしも滝川さまとお会いできず、残念に思っています」  和田さんの無念そうな言葉を受けて、あかりが言った。  すると藤吉郎が、うんとうなずいて、 「都はまだ、荒れておるからの。滝川どのや明智どのほどの才覚がなければ落ち着かぬよ。……じゃがまあ、二人とも元気ではおるはずよ。わしも9月まで、明智どのと滝川どのと組んで、越前国の統治をやっておったからの」 「明智どのが元気ならば、それは良いことです」  そのとき、ずっと黙ってみんなの話を聞いていた半兵衛が口を開いた。  半兵衛と明智光秀は、同じ美濃出身で知人同士。気にかかることも多いのだろう。  滝川一益についても、――和田さんだけでなく、俺やあかり、カンナは、昔からの仲間だ。藤吉郎とはウマが合わないようだが(それでもここ最近は、長い付き合いもあってか、昔よりはそれなりに険悪でなくなった)、俺たちは久助のことを常に案じている。 「本来ならばこの宴は、もっと人を呼びたかったがの。又左(前田利家)や松下嘉兵衛さまもおればよかったが、ふたりとも別の場所でお役目があるゆえ、呼べなんだ」 「まあ、いずれまた会う機会もあるさ。……それよりも和田さん。しばらく甲賀を離れて、紀伊に向かうそうですが」  俺はその話題を切り出した。  宴の空気が少し、静まった。  和田さんは、うむ、とうなずき、 「公方様がいま、紀伊におられると聞き及べば、……やはりそれがしとしては、お供をしないわけにはゆかぬ。……山田うじによって助かったこの命、信玄を倒すことでご恩返しはできたと思っておる。あとはただ、公方様に忠義を尽くすのみ」 「和田どのには、再び我が殿に仕えてほしかったがのう」  藤吉郎は、残念そうに言った。  義昭嫌い、いや足利嫌いの藤吉郎からすれば、和田さんの感覚はよく理解できないだろう。  俺としても、できれば和田さんには甲賀に残って、忍びとして織田家に仕えてほしかった。あるいは、信長と、一度トラブルがあった和田さんだから、仕えるのが気まずいのかもしれないが、それなら神砲衆にいてくれてもいい。そう思っていたのだが、 「羽柴うじと山田うじのお気持ち、よう分かり申すが」  和田さんは、優しげな顔を浮かべて、 「それがしは、公方様が、お可哀想でな。……生まれたときから、次男だったゆえに仏門に入れられ、その後、足利の血があるゆえに、あまたの人間どもに命を狙われ、いままた流浪の身分となられたあのお方。……見捨てることはできぬのでござる」 「む。……そうか、左様な話をされるとこの藤吉郎、めっぽう弱い。分かり申した、和田どのは公方様にお仕えされよ。我が殿には、和田どののことは隠しておく。のう、弥五郎?」 「ああ。……和田さんが実は生きていて、公方様のところへ行ったとなれば、殿様も愉快ではないじゃろうしな」 「感謝する。おふたりの好意に、心より御礼申し上げる。……代わりといってはなんだが、次郎兵衛を置いていく。これまで通り、神砲衆の忍びとして山田うじの下で使ってくだされ。よいな、次郎兵衛?」 「言うまでもなく。あっしは死ぬまで、山田のアニキにお仕えするッスよ。これからも、よろしくお願いするッス!」  次郎兵衛が、俺に向けて平伏する。  お願いしたいのは俺のほうだ。俺は大きくうなずいて、 「よし、それじゃ和田さんの旅立ちと、次郎兵衛の再加入、そして藤吉郎の築城祝いだ。今夜は派手に、どこまでも派手に飲んで、歌おうぜ!」  ――その日は、夜通し騒いだ。  酒をさほど飲めない俺や藤吉郎も、珍しく飲み続け、少年時代、『もちづきや』や津島の屋敷で集まったときのように、ただひたすらに歌い、騒いだのだ。  明日からは、また戦いと商いの日々が始まる。  和田さんは、戦死したと聞いていた息子が、実は生きていたことを知ったので、その息子と合流して足利義昭のところへ向かった。  藤吉郎は小谷に妻や母、親族を呼び寄せ、同時に長浜の築城計画を進めていく。  俺は、伊与、カンナ、五右衛門、次郎兵衛ら仲間と共に岐阜に戻り、商務をこなしていく。岐阜に巨大な屋敷を買って、それをあかりに与えることも忘れなかった。  日々は忙しく続いていく。  その果てにある、天下布武の四文字のために。  俺と藤吉郎が、若き日に抱いた、黄金色の誓いのために―― 「……(うず)くな」  長浜仮館の一室において、竹中半兵衛はおのれの身体についた傷跡を、そっと撫でた。  武田信玄暗殺の一件で、野田城で戦ったときの傷跡だ。  武将にとって、負傷は恥ではない。  男子の向かい傷は、むしろ誇るべきことだ。  半兵衛は知略の持ち主だが、それでも戦国の男である。  いくさに赴き、泥と傷にまみれつつも手柄を立てることこそ武士の本分。そのように思っている。だから怪我そのものについては、まったく後悔をしていない。 「しかし、武田忍軍のあの女、未来(みく)といったか。大した手練れだったが、いまはどこにいるのやら……」  独りごちながら、寝具の上に身体を横たえる。  未来という、あの女の忍びを、山田弥五郎は逃がした。  ずいぶん昔からの顔なじみだったから、情が湧いた、ということもあるだろう。――あの山田弥五郎は、とにかく優しい。情け深い。敵になった相手でも、状況が許せば命を助ける。そういう妙な懐の深さがある。――だからこそ、 「読めぬ」  と、半兵衛は思うのだ。  美濃攻めのときに、山田弥五郎と知り合ってから、もう8年になる。  その間、半兵衛は常に他人を観察してきた。織田信長、羽柴秀吉、柴田勝家、明智光秀――目の前に現れた男たちを、それは丁寧に眺めてきた。 (この乱世を勝ち抜くのは誰か)  それを知りたかった。  好奇心でもあり、竹中家の今後のためでもある。  乱世を生き抜く人間を見抜き、その人間と共に戦う。その武将のために知略を捧げる。  そうすることが、半兵衛のためであり、竹中家のためであり、なにより男としての希望でもあった。――その半兵衛が見たところ、当世随一の人材といえば、やはり、 (織田信長と羽柴秀吉)  このふたりは別格だ。  知略、勇気、行動力。  人間そのものに対する心優しさ。  乱世を収束に導こうとする意思。  どれも、信長と秀吉にこそ強く感じるものだ。  その観察は間違っていなかった。天下の覇権はいまや、足利家から織田家に移りつつある。その織田政権が、さらに長く続くかどうか。それは信長と秀吉、さらには自分の努力次第だろう。――そう思っている。  そんな思考の中で。  山田弥五郎俊明。  あの男だけが、まだ読めない。  見たところ。  それなりの知略と人望。  見識、頭脳はまず並の上出来。  武器や道具作りの手腕においては、天才的。  それが半兵衛の、山田弥五郎に対する評価だった。  だが、その割には、――山田が時おり見せる、妙な凄みと、天才的な先読みの冴えは、どういうことだろう? 突如、山田が見せる、信長や秀吉以上の頭脳の冴えは、いったいなんなのか? 半兵衛の知略をもってしても、山田弥五郎という人間だけは、未だに理解ができないのだ。 (織田信長と羽柴秀吉が巨大な沼ならば、山田弥五郎は小さな沼だ。……しかし底が知れない。底なし沼を覗いているような気にさせられる……)  山田という沼の底には、なにがあるのか。  それを知りたい。  半兵衛がここ数年、織田家に仕え、山田弥五郎に協力を惜しまないのは、そういう一面もあった。 (山田弥五郎。……尾張の片隅にあった農村で、炭売りの息子。当時、薪炭奉行の下で働いていた羽柴秀吉と知り合い、天下を泰平に導く誓いを立てた男。その後は、あの蜂楽屋カンナや堤伊与と共に商いに励み、巨財を作り上げ、織田家とも繋がった男。武器を作り、道具を作り、ときには米や味噌を売って回り、巨利を得たというが――)  この世のものとも思えない武器や道具を作り。  先のことまで見据えたかのような交易を繰り返す。  それが山田弥五郎。神砲衆の特徴だが―― (この世のものとも……先のことまで……)  そのときであった。  半兵衛の明晰な頭脳は、なにか、引っかかるものを感じた。  この世。先のこと。その部分が、直感的に、なにか引っかかる。  この世。先のこと。  この世。先のこと。  この世。先のこと。  これらの単語が、脳の中でぐるぐると渦巻いて―― (この世のものではないものを作り出し、先のことを知っている男――)  それは、ぞっとするほどの気付きであった。  先のことを知っている?  この世のものではない? 「……半兵衛。なにを考えている……」  まるで幼児の妄想だ。  山田弥五郎が、この世のものではなく先のことを知っている男?  馬鹿なことだ。……馬鹿な発想だ! しかし、世の中には馬鹿げた発想がときとして現実になる、ということを半兵衛は知っていた。信じられないようなことが現実になるのが、世の中なのだ。そう、百姓のせがれ、炭売りのせがれが、国持ち大名や天下の大商人となること自体が本来は信じがたいことなのだ。だがしかし、だがしかし!  山田弥五郎が。  この世のものではなく。  先のことを知っている人間だとしたら。  そうだとしたら。  半兵衛は、立ち上がった。  顔をゆがめる。傷がうずく。――未来にやられた傷が。  部屋を出た。  廊下では、近侍が控えていた。  慌てて頭を下げようとする近侍を、半兵衛は手で制した。 「月を見たくなっただけよ」  そう言った。  廊下の前には、ごく小さな庭が広がっている。  仮館の庭だけあって、まだ草むしりさえされていない、手入れもされていない庭だが、その庭のはるか天上に、丸い月が輝いていた。 「……山田弥五郎」  半兵衛は、満月の輝きを目に焼き付けながら、――その、もしかしたらおぞましいかもしれない存在の名を口にした。  月の輝きは、いつまでも消えない。 第四部 太閤昇竜編 完 第五部 本能寺鳴動編へ続く
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