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第五部 第二話 本能寺まであと七年
長篠の戦いに勝利した信長の名声は、いよいよ高まった。
なんといっても、天下最強と名高い武田家を打ち破ったのだ。
そこで朝廷は、天正3年(1575年)7月、信長に官位の昇進を勧める。だが、
「時期尚早」
といって、信長は断った。
「武田家を打ち破った直後に官位をいただいては、信長ひとりが名誉を求めたと世間に思われる。余は名声のためではなく、天下安全のために戦をしている」
岐阜城から、わずかな兵を率いて、京の都に上がる途中のことだ。
信長は、小さな寺で休憩をしたのだが、彼は俺に向かってそのように言った。
自分の考えを、整理するためにしゃべっているようにも見えた。
寺の中には、信長自身と、近侍が5人。それに俺と伊与とカンナしかいない。
「公方様も、まだご健在ですからね……」
「その通りだ」
信長はうなずいた。
足利義明はこの時期、紀伊国にあって、なお反信長の姿勢を保ち、諸国の大名に書状を送り続けている。信長を討て、というわけだ。実に執念深いことだが、信長はこの期に及んでも、義昭(と、それを支持する勢力や世論)に対しては敏感で、官位昇進の要請を受けないのもそれが理由のひとつだった。
「その代わりに、家来衆に官位をくれてやる」
明智光秀に、惟任の名字と日向守の官位を。
丹羽長秀に、惟住の名字を。
滝川一益に、伊予守の官位を。
「そして、羽柴藤吉郎には筑前守の官位をやる。どうじゃ、山田には嬉しかろう」
俺と秀吉の関係を知っている信長は、ニヤニヤしながら言った。
秀吉の出世は、俺の出世でもある。
「ありがとうございます。藤吉郎もきっと喜びます」
俺は、笑みを浮かべて平伏した。
信長は、満足そうにうなずいた。
かと思うと、信長は、俺の背後に控えている伊与に視線を送り、
「堤としては、山田本人に出世がなくて歯がゆかろう」
「はっ。……いえ、左様なことは」
俺の背後で、伊与が答える。
俺からは見えなかったが、伊与はあまり、良い顔をしていなかったらしい。
「構わぬ。女房としては当然の不満じゃ。……山田には、また別の仕事を任せ、かつ別の褒美をくれてやる。ゆくぞ」
信長は、急に寺を出た。
行動力に溢れている彼は、会話の途中でもすぐに移動しようとする。
俺と伊与と近侍たち、そして寺の周りを警護していた織田軍の兵たちは、慌てて信長についていく。
信長は、すでに馬上のひとになっていた。
俺も馬に乗り、ついていく。
伊与は、輿である。
信長が「女子に足や馬はきつかろう」といって許したものだ。
歩くのも馬に乗るのもまったく苦痛ではない伊与だが、信長はそもそも女性に優しく、こういう配慮がしばしば出てくる。
やがて、瀬田川にやってきた。
琵琶湖から流れ出るこの川には、橋がかかっていたのだが、
「山田。この橋を改修する。材木を手配せよ」
信長はふいに、そう言った。
「材木の代金は、いくらでも織田家が支払おう。その代わり、けちけちするな。末代にまで続くような、丈夫な橋とするために、よき材木を買い集めるのだ」
信長が言った『別の仕事』とはこれのことか!
俺は思わず、背後を振り返り、伊与とカンナ、ふたりと目を合わせた。
カンナは、にっこりと笑い、
「それでしたら、殿様。材木は、若狭の神宮寺と近江の朽木谷から伐採してきましょう! 藤吉郎、いえ、羽柴様の長浜城を築くときにもそこから木を手配したとですけれど、そりゃもう、質が良かったですけん!」
「任せる。……そういうことだ、堤」
信長は、伊与の目を見て、
「山田にはあくまでも、商いに関わる役目をしてもらう。そのために、官位や名字、領土とは別の報酬と特権を与える」
「ははっ」
伊与は、その場で頭を下げた。
信長は満足げにうなずき、それから、目を細めて、
「山田の才は商いと物づくりにあろう。官位だの領土だの、まつりごとには向かぬ」
「自覚しています」
「山田は弱者に肩入れしすぎる」
信長はふいに、そんなことを言った。
「弱きものと強きものがぶつかり合ったときに、弱きものが正しいと思うふしがある。ひととしては見上げたものだが、まつりごとを行う大名としては、それではゆかぬ」
信長が、はっきりと俺の性格を分析して言ったので、俺は少々驚いた。
弱者に肩入れしすぎる。……そうかもしれない。俺は自分の過去が、弱者であったがために、他人についてもすぐ弱いほうの味方をしようとする。
政治家はそれではいけない。……あくまでも平等に。弱者に正義があるときもあれば、強者に道理があるときだって存在する。そこをどこまでも、見抜いていかねばならない。俺に欠けているのは、そういうところなんだろう。信長はそれを知っているからこそ、官位を俺に与えず、あくまでも織田家の商人として扱うことにしたのだ。
「商いのことは山田に任せていく。かつて山田からさんざん進言された、関所の撤廃、道の整備、すべて行っていく。神砲衆にも、さらに働いてもらうぞ」
信長は、空を見上げながら言った。
雲ひとつない晴天である。
ふいに、この時代の両親たちと商いを行いはじめたあの日の空を思い出した。
乱世である。だが空の青さだけは、間違いなく、未来よりも戦国時代のほうがいい。
しかし――
俺は知っている。
いまから7年後に、信長は死ぬ。
いわゆる『本能寺の変』。明智光秀が信長を殺してしまう未来。
俺はこの史実に対して、どう向き合うべきか、昔から悩んできた。
信長が殺され、その後、秀吉が台頭し、天下を統一し、やがて家康の徳川家が日本をまとめる。
この流れは決定的であり、……もしも信長が死ななければ、おそらくその後の秀吉と家康による天下統一は行われず、未来の日本は、俺が知るものとは大幅に変わったものとなるだろう。
最悪の場合、天下が統一されず、乱世に逆戻り。
そういう未来だってありえるのだ。
ならば。
信長は殺されていいのか?
死ぬと分かっている人間を、助けなくていいのか?
すでに、20年以上の付き合いであり、俺のことも理解し、評価してくれているこのひとを。……見捨てるのか? 歴史が変わるかもしれないから、といって?
その答えがついに出せないまま、もう1575年にまで来てしまった。
信長を殺す明智光秀。彼の人間性とスタンスがいまいち読めないことも理由のひとつだが。
光秀とも、出会ってすでに10数年。いっしょに戦ったこともある。第一印象はあまり良くなかったが、……別に光秀が、猛烈な極悪人に見えることもないわけだ。少なくとも、いまの俺から見て。
そんな光秀に対して、俺はどう対応すればいい?
俺はなお、悩んでいる。
ただ。
感情的にいえば。
俺は、……信長を殺したくない。
いなくなってほしくないのだ。
俺は信長のことが、大名としてではなく、ひとりの人間として、……好きなのだ。
そんな信長が殺される未来は、……やはり、見たくない。
『あんたは、自分が気に入らないやつをぶち殺しているだけだ』
かつて、熱田の銭巫女からそう言われたな。
その通りだ。……平和な世の中にしたいと願い、そのためには信長から秀吉の天下にしたほうがいいと分かりつつ、……いま、好きだからという理由で信長を救いたいと思っている。まったく、酷いものだ。
「なるほど、政治家に向いてない。肩入れしすぎる」
「んー? 弥五郎、いま、なんか言うた?」
思わず独りごちた俺に、カンナが声をかけてきた。
俺はかぶりを振った。
「なんでもないさ……」
京の都が見えてきた。
都には、わが友秀吉や、光秀が率いる軍勢が駐留している。
越前国で一揆が起こっている。その鎮圧のための軍勢だ。信長と俺が上洛したのは、朝廷に官位の件を話すためと同時に、越前出陣のためでもあった。
「越前の戦は余が直々に采配する。山田は瀬田の橋の手配をせい」
都に入るなり、信長はそう言うと、駐留している織田軍のほうへと向かっていった。
その颯爽たる後ろ姿を見て俺は、もう一度、あと7年、と心の中で繰り返した。
あと7年。
本能寺まで、あと7年。
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