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第五部 第四話 織田信忠登場
「こうして眺めると、まるで別の国のようですね」
「俺もそう思う」
天正3年(1575年)10月、尾張国。
田園地帯の真ん中にある、ほんの少しだけ小高い丘の上にて、俺は彼女と共に尾張の景色を久しぶりに眺めていた。
肩まで伸ばした黒髪の中に、少しだけ白いものが混ざり始めた彼女。
もちづきやのあかりである。
もっとも、もちづきやはすでになくなっている。
あかりは津島から離れ、岐阜城下にある山田屋敷で働いてくれている。
彼女には、夫と共に奥向きのことを一切任せてある。子供たちのことも含めて。俺も伊与もカンナも、不在のことが多い山田屋敷は、もはや彼女が女主人のようになっていて、あかりがいなければ飯もまともに食べられないという環境らしい。
だからといって、あかりはその立場に奢ることもなく。
神砲衆みんなの面倒をずっと見続けてくれている。
今日もそうだ。
俺は信長に依頼されたため、神砲衆の家来と共に尾張国中に材木を届けたのだが、衆全員の食糧を岐阜から届けてくれたのはあかりだ。米飯と漬物に、干物の魚もついている。
「あの魚、美味かったよ。みんな喜んでいる」
「このようなお役目しか、わたしにはできませんから」
「立派な仕事さ」
「そう言っていただけると嬉しいです。ところで滝川様はお元気ですか?」
「元気だよ。越前の一揆攻めも一緒だった。忙しくて、あまり話せなかったけれどな」
「そうですか、お元気なら良かったです。最後に話したのはいつだったでしょうか……。近ごろは、去年やおととしのことも、つい最近という気が致します」
「俺もだ。齢を重ねるとはこういうことだな。もちづきやでみんなと一緒にアワだかヒエだかを食っていたころが懐かしいよ。あの生活はもう無理だな」
「あら、そうですか? わたしはいまでも、あのころのような暮らしも悪くなかったと思っておりますよ」
「そうかい? まあ、気楽ではあった……。――おっと、俺たちが年齢を感じるお方がひとり、来られるぞ」
「え? ……あっ、あの方……。わたし、下がりますね」
「ここにいて構わんさ。頭さえ下げれば」
田園の彼方から、一団がやってくる。
若武者がひとり。その周囲にも武装した侍が二十人ほど。
若武者は、俺たちの姿を見つけると、眼を細めて近付いてきた。
「山田弥五郎。ようやく会えたな」
「勘九郎さま。道中、お疲れ様でございます」
織田勘九郎信忠。信長の嫡男である。
2年前に元服した、現在満年齢で換算すると18歳になる若殿様だ。
俺とは顔見知り程度で、さほど親しくはない。といってもお互いに顔は当然知っているのだが――若いころの信長によく似ているが、うつけと呼ばれた父親のような素振りは見せず、年長者に対して礼儀正しく、敬意を払って接する、良い若者である。
「父上より命ぜられた。これより尾張の道を整備するのは、この勘九郎の役目となる。だが、正直に申して、余は道をどのようにすればいいのか皆目分からん。山田弥五郎、仕事のやり方を教えてくれると助かる」
卑屈なところはまるで見せずにものを頼むその姿。
これこそがまさに新時代の御曹司だな、と俺は思う。
20数年前。
つまり尾張が乱れていたころに家督を継いだ、若い頃の信長ならば、道路整備ひとつにしても我流でどんどん進めていくか、仮に老臣にものごとを尋ねても、もっと圧が強いというか、信忠のようにへりくだったりはしないだろう。
だがいまの時代には信忠流が好ましい。
泰平となった尾張国には、信長のような、血刀で時代を切り開く仕事ぶりよりも、温厚な信忠のほうがふさわしいのだ。信長もそれが分かっているから、信忠に道路整備の仕事を任せたのだろう。
「承知してございます。それでは、この山田の経験から考えを申します。尾張国内の道をまず三種類に分けます。大きな道、脇道、さらにもっと小さな脇道。そして、これらみっつの道を、それぞれ、3間1尺(5.6メートル)、2間1尺(3.8メートル)、1間(1.8メートル)というふうに、完全に幅を定めてしまうのです。そうすることで、武士の軍団も、道を行く旅人や商人も、尾張の民も、どのようなときにどの道を使えばよいか分かりやすくなります」
「しかし、そのようなことをすれば敵が攻めてきたときに、分かりやすくなってしまうぞ」
「そこを攻め込まれないようにするのが、殿様のお役目でございます」
「言うなあ、弥五郎」
信忠は若者らしく、明るい笑みを浮かべた。
「もっともだ。父上も桶狭間より先は、他国の兵に尾張の土を踏ませなかった」
「そうです。敵との戦いは常に攻め入る形で行うことが肝要でございます」
「よう申した、弥五郎。上に立つ者の役割、心得たぞ。この勘九郎ある限り、尾張の土を他国者には踏ませぬ。そう考えて国作りをしていこう」
さすがに信忠は頭脳明晰だ。
父親ほどのアクがない分、ひとの言うことをよく聞いてくれる。
「ところで弥五郎、そちらの女性は?」
信忠が、地べたの上に正座したままのあかりに目をやる。あかりは再び平伏した。
「山田家の台所を采配してくれている者で、あかりと申します。今日は岐阜から飯を運んでもらったのです」
「飯を? ち、力持ちなのだな」
「え」
「うん?」
いま、なにかが噛み合わなかった。
信忠はキョトンとしていたが、俺も呆然とする。
だが、やがて信忠はあっはっはと笑い出し、
「そうか、あかりが飯をすべて運んでくるわけがないな。運んできたのは小者たちであろう。そうだな!?」
「は、はい。左様で」
「そうか、これは勘九郎がうつけだった。すまん、すまん。……謝りついでに、その飯とやらはあるか? 腹が減ってきた」
「あかり。あるかい?」
「は、はい。もちろんございます。少々お待ちを。――お口に合いますかどうか」
あかりが急いで差し出したのは、麦混じりの握り飯である。
信忠はうなずいてから、握り飯をつかんで食べると、
「美味い!」
と、大声で言った。
「美味いぞ、じつに美味い。中の梅干しも酸っぱくていいな。握り飯は塩が強いのに限る。あかり、見事だ。岐阜に戻っても、また握り飯を作ってくれ」
「は、はい。ありがとうございます!」
あかりは笑みをこぼしながら、また平伏した。
信忠の、信長とはまた違う殿様とのしての魅力を俺は感じた。
その後、俺と信忠は話し合いを繰り返した。
尾張国中の道作りや橋造り、用水路の補修や整備の話を、信忠はよく聞き、よく尋ねてきた。俺はそのたびに意見し、ときにはまごうこと無き尾張の民であった、あかりの意見も聞いた。
「弥五郎。ここだけの話だが、父上はいずれ琵琶湖沿いにある安土に移られるおつもりだ。その後、美濃と尾張はこの勘九郎が持つことになる」
信長の安土築城が始まろうとしている。
俺は大きくうなずいた。
「まだまだ至らぬ身だ。だが美濃と尾張はこの勘九郎が必ず、良き国としてみせる。弥五郎、あかり。これからも余に力を貸してくれ。頼むぞ」
「「ははっ」」
あかりとふたりで平伏しながら、いよいよ俺は決意を始めていた。
織田信長を殺す道を、避けたい。
史実を考えれば、織田信長は明智光秀によって殺害される。
そのとき、この信忠も、信長と運命を共にして、この世からいなくなる。
だが――
天下の平和のためを考えれば、信長、そして後継者の信忠が生きる道でも、良いのではないか?
織田家が天下を取り、その天下を秀吉や俺が支えていく形になるのも、素晴らしいのではないか?
むしろ史実通りにいけば、最終的に天下が徳川家康によって安定しようとも――秀吉の唐入りによって天下は乱れる。それに我が友である滝川一益、佐々成政、さらに先日は共に越前支配について話し合った柴田勝家らも、悲惨な最期を迎えてしまう。
それならば、織田政権のまま天下泰平となったほうがいい。
それが天下のためであり、友のためであり、……たぶん、俺のためなのだ。
例え天下が史実通りになったとしても、滝川一益や佐々成政が悲しく亡くなってしまう世界は、――むなしい。
「決めたぞ。伊与、カンナ」
岐阜の山田屋敷に戻り、奥深くにある俺の部屋にて久しぶりに3人で集まると、俺はふたりに打ち明けた。
「本能寺の変は回避する。織田信長を活かす」
伊与とカンナは、眼を大きく開いて、
「いいのか、俊明。……それは歴史を変えることになる。そうなれば、その後の流れがまるで読めなくなる。先が分からなくなる」
「構わない。確かに歴史の知識は使えなくなるが、この戦国にやってきて、もう20数年。俺なりに経験も積んだ。鉄砲の技も、モノ作りも、この時代に通じることが分かった。それにみんなもいる。伊与、カンナ、五右衛門、あかり、次郎兵衛。……いまから歴史の知識がなくなったとしても、まるっきり遅れを取ることはない」
「そら、そうやけど。……大丈夫なん? あたし、ちょっと気になるんやけど」
「なにがだ」
「もし未来が変わって、大殿様が、つまり織田信長が生き残ってしまったら、弥五郎がおった世界はどうなるん? もともとアンタ、そっちの世界からこの時代に来たんやろ? 弥五郎はどうなるん?」
「……。タイム・パラドックスってやつだな。未来から来た人間が過去を変えてしまえば、未来は消えてしまうのか、否か。そして未来から来た人間も消えてしまうのか、否か。それは誰にも分からない」
「大樹村の弥五郎はいなくならないだろう。元よりこの時代の人間なのだから。ただ、未来からやってきた山田俊明の霊魂は、……どうなるのか……」
「嫌よ、そんなん! 弥五郎の魂がおらんくなるとか!」
カンナは、長い金髪を揺らしながら怒った。
「それやったら、大殿様がおらんくなるほうがいい! 藤吉郎さんの天下になっていい! むしろあたしがするし! 本能寺の変とかいうのは、あたしがやってもいいんやし!」
本能寺の変、蜂楽屋カンナ黒幕説。
ここに来て歴史に新しい説が爆誕してしまったが、
「――いや、まあ、冗談はさておき」
「勝手にさておかんでよ! 好かーん、もう! ……あたしは本気ばい。弥五郎を守るためなら、なんだってしちゃあけん!」
「落ち着け、カンナ。俊明がいなくなると決まったわけじゃない」
「じゃあ、どうなるん。山田俊明だけいなくなって、大樹村の弥五郎だけが戻ってくるん? 12歳とか13歳くらいのころの弥五郎が? 見た目はいまの通りなのに?」
「だから、分からないのだ。未来を変えたらどうなるのか、誰にも分からない」
「やからそれやったら、歴史通りにいこうって話よ! ええやん、藤吉郎さんとずっと仲良しでおれば! 弥五郎は徳川様とも会ったことあるし、うまく立ち回ればずっと生きていけるやん!」
「もういい、やめてくれ、ふたりとも。……ふたりが考えてくれているのはよく分かった。ありがとう。……カンナの言うとおり、歴史のままいけば、充分、俺は幸せになれる。だけど俺は、俺たちだけ幸せになればいいとは思わない。
佐々成政や滝川一益や柴田勝家のため。
そして、あの大樹村の悲劇――ただ穏やかに生きているひとたちが不幸になることを、少しでも少なくするために。
俺は織田信長を守り、織田の天下にして泰平を望む。
……天下泰平は、ひとりでも多くの人間を救う未来にすることは、あのとき、大樹村の大樹を前にして誓ったことだからな」
「「…………」」
伊与とカンナは、揃って黙り込み、
「なにがあっても、私はお前の決断を尊重する。私はそれについていく」
「……あたしはまだ、分からんよ。弥五郎の言うこと聞くけれど、もしもそれで弥五郎がおかしくなりそうやったら、あたしは、……弥五郎を守るためだけに、動くけん……」
「ああ、それでいい。我がままでごめんな。……俺に、ついてきてくれ……」
俺はふたりに近づき、そして両腕でふたりを抱きしめた。
すると伊与もカンナも、俺の両手にそれぞれ、右手を重ねてくれた。
温かい。……良い香りがした。
天正3年(1575年)11月。
織田信長は織田家当主の座を、信忠に譲った。
そして自分自身は、織田家という枠組みから離れ、天下人となるべく動いていく。
堺の茶人、千宗易を茶頭とした茶会を開き、各地の茶人や文化人と交流。茶器や芸術品を収集し、自身が天下で一番の『物持ち』であることを表明。
さらに朝廷は、信長に対して、足利将軍家に匹敵する従三位権大納言兼右近衛大将の官位を授けた。
織田信長は、足利将軍家に代わる天下人として、天下に認められ始めていた。
かつては足利将軍家の下、天下静謐を志していた信長だったが、足利義昭が信長との天下を望まないこと、宿敵の武田家を長篠で打ち倒したこと、そしてなによりも多くの民衆や家臣団が、信長の天下を望み始めていたことから、信長自身もついに動き始めたのだ。
「我こそは、天下人である」
と。
俺も心に決めたのだ。
天下人は織田信長でいこう。
和田惟政さんを助けたように、きっと信長も助けられる。
本能寺の変は回避するのだ。
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