第五部 第七話 石山合戦~第一次木津川口の戦い

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第五部 第七話 石山合戦~第一次木津川口の戦い

「それはよせ」  俺は言った。 「伊与」 「なぜだ? ここで明智を討っておけば、上様(信長)は死なずに済むだろう」 「もし、しくじったらどうする。明智は織田の重臣だ。それを殺そうとして失敗すれば、伊与、お前はもちろん俺もカンナも、樹も牛神丸も、すべて連座で斬首だぞ」  樹の名前を出すと、さすがの伊与も黙り込んだ。 「それに、まだある。この時点で明智光秀を討ってしまえば、今後の展開がまるで読めなくなる。いま、丹波国の波多野が織田と敵対しているが、この波多野を倒すのが明智の役目なんだ。――いま明智光秀がいなくなれば、織田家も、そして上様もどうなるか分からない」 「分かった。そうまで言われては、私も返す言葉がない。明智暗殺の案は、私が軽率だった。無しにしよう」 「むしろこれから始まる戦いで、伊与には上様と明智、両方を助けてほしい」 「どういうことだ?」 「まだ言ってなかったか。来月から始まる石山合戦で、明智光秀は敵に囲まれ窮地に陥る。そこを上様――織田信長がみずから、少ない手勢をもって突撃し、明智を救助するんだ。俺が知っている史実では、そういうことになっている。この戦いには藤吉郎や久助(滝川一益)、丹羽長秀さんに佐久間信盛さんも参加するが、一番活躍するのは信長自身さ」 「総大将がみずから戦うって、相当やねえ。ま、上様はお強いけんね。若いころからよう陣頭で戦いよったもん」 「はは、陣頭指揮が本質的に好きなお人なのかもな」 「ところで俊明。石山に私が向かうのは、もちろん構わないが、堺での商談が済んだら、お前も石山に来てくれるのか?」 「……。……いや、俺は堺に留まる。悪いが、石山のほうは伊与に任せる」  信長や明智の大ピンチではあるが、伊与ならばきっとなんとかしてくれると俺は思った。  藤吉郎や滝川一益、丹羽長秀らもいることだしな。 「承知した。私を信頼してくれて嬉しい。必ず、織田家の勝利に貢献しよう。俊明は商売にのみ励むのか?」 「それもあるが、もうひとつ。……もうひとつ、やるべきことがあるんだ」  俺はそう言って、自分の中の案を伊与とカンナに打ち明けた。  それは――  天正4年(1576年)4月。  石山本願寺と織田家の合戦が始まった。  両軍、互いに鉄砲を激しく撃ち交わす激闘が続く。  やがて織田家の重臣までもが、本願寺軍団に討ち取られる。さらに本願寺勢が、織田家の守る天王寺砦を襲撃。砦を守っていたのは明智光秀だったが、自軍の数倍の敵に囲まれて、その生命は絶望的な状態となった。  ここから先は、合戦の現場にいた伊与から、のちのち聞いた話だが――  光秀の危機に、佐久間信盛、滝川一益、丹羽長秀、さらに藤吉郎の軍勢が救援に駆けつけた。その上、信長がみずから槍を持って突撃し、少ない手勢を持って何度も何度も本願寺勢と衝突した。 「上様みずからの奮闘ぞ! これを見て励まぬは侍の恥ぞ、侍の恥ぞ。皆の衆、槍出せ弓出せ刀出せ、羽柴の武門を見せてやれい!」 「羽柴の野郎、相変わらずうるせえ……。みんな必死にやってるんだよ。……おい、みんな、上様と羽柴に遅れるな。滝川の意地を見せてやれ!」  藤吉郎と久助が、大声で軍勢を鼓舞しながら突き進む。  しかし、敵の数はあまりに多く、やがて織田軍は分断され、信長は周囲にわずかな供しかいない状態となってしまった。 「明智はいずこ、明智はいずこ。三郎信長がみずから参ったわ! 明智はどこぞ、返事を致せ!」  信長は明智を助けるために大声で叫び回る。これには味方の兵を励ます効果も期待していたようだが、しかし逆効果となった。本願寺の兵が「信長はあそこか」と気が付き、わっと信長本陣に飛びかかってきたのである。これにはさすがの信長も、ついに手傷を負い、これは一巻の終わりかと覚悟をしたような顔を見せたそうだが、そこへ、 「神砲衆、堤伊与、見参」  伊与が、次郎兵衛以下、神砲衆の手勢を引き連れて信長を間一髪救助した。 「堤、よく参った。三郎、嬉しいぞ」 「ありがたき幸せ。然れども、まずはここから突破して」  伊与は戦いながらも次郎兵衛を振り返り、 「余りのリボルバーはあるか!?」 「ひとつだけッス。こいつはアネゴの護身用としてアニキから預かった――」 「私はいい。それを上様に差し上げろ」  次郎兵衛は、リボルバーを信長に献上した。 「これはいい」  信長はニヤリと笑い、 「明智の金柑頭を助ける。堤、ついて参れ!」  信長は刀を抜いた。  右手に刀、左手にリボルバーを構え、飛びかかってくる敵を伊与たちと共に次から次へと撃破していく。やがて信長は、血まみれになった全身を、本願寺の兵たちに見せつけるように一歩前に出た。敵兵たちが、思わず一歩、後ろへ下がった。完全に気圧されたのだ。信長は一喝した。 「弱虫どもが、信長に刃向かうか。百年早いわ!」  ダァーン、と、リボルバーが火を噴いた。  ひとりの僧兵がぶっ倒れた。敵兵たちが、慌てふためいた。 「いまだ。いくぞ、堤、次郎兵衛」 「はっ!」 「あ、あっしのお名前まで。……ははっ!」  信長はいよろと次郎兵衛を連れて、次々と敵を斬り倒しながら突撃し、ついに一番手で天王寺砦に達した。そして、砦内に入るなり、織田の旗を砦にひしめかせ、 「信長みずから、砦に入った。もはや戦はしまいじゃ、命が惜しければ散れい、散れい!」  大声を――そう、かつて稲生の戦いでも敵兵を蹴散らしたような雄叫びをあげて、織田の勝利を宣言したのだ。この声を聞いて、藤吉郎たち織田軍も士気を上げ、敵兵を蹴散らし、天王寺砦に駆けつけてきた。 「上様」 「無事か、明智。……良かった」  そう言って、砦内にいたボロボロの明智光秀を見つめる信長の目は、本当に優しげだったらしい。  ああ、光秀を殺そうとしなくて良かった。  伊与は心からそう思った、とのことだ。  そして。  この戦いを経たうえでも、信長を殺してしまう明智光秀は、いったいどういう人間なのかと考えたそうだ。 「や、どうも、すみませぬ。遅れをとり申したな」  呑気な声を出しながら、佐久間信盛がそのとき、砦に入ってきたそうだ。  明智光秀は、じろりと佐久間さんを見つめた。信長もまた、じっと佐久間さんに視線を送った上で、 「佐久間、余裕があるな。では今後の本願寺はそちに任せていこう」  そう言った。  こうして天王寺砦の戦いはいったん終わり、織田軍の中でも比較的、消耗が少なかった佐久間信盛が、天王寺砦に入って、対石山本願寺の最前線に立つことになった。  織田軍は京の都に向かって帰還。  手傷を負った信長と光秀は、京に戻ってから、しばらくの間、死んだように眠り続けたという。  さてこの間、俺は堺でカンナ、樹と共に商務をとり続けた。  利益は上がる。しかし前線で織田軍が大消耗したため、儲かった金はそちらに送り、手に入れた利益はみるみる消えた。 「こうなると、火薬も揃えられなくなる。新しい武器も作れない」  俺は思わず、愚痴った。 「また火薬、作らないかんね。硫黄に炭に、硝石ば集めて。昔みたいで懐かしかよ」 「そいつもいいが、硝石代さえ現状じゃ捻出できない。――そこでこれからの戦が役に立つ」 「あ。……例の計画やね? うまくいくかいな?」 「いかせるんだよ」  俺はニヤリと笑った。  7月。  瀬戸内海を、船団が走る。  石山本願寺を救援するために、盟友たる毛利家の水軍がやってきたのだ。  石山本願寺は現在、陸と海の両方を織田軍が囲み、兵糧攻めの状態となっている。ここに兵糧を運び込むのが毛利軍の役目だ。  織田水軍は、この毛利軍を止めようとする。  結果だけ言えば、この戦いは織田の負けだ。  水軍の力では毛利のほうが圧倒的に強い。織田は負ける。  この結果を知っていた俺は、 「無理やり介入して勝たせるよりも、むしろこの戦を利用して、ちょいと補給に使わせてもらうか」  と思った。 「ホキュウ?」 「ああ、足りない硝石や銭を、稼がせてもらう。なあ、五右衛門」 「うちの出番だね。あいよ」  毛利水軍は織田水軍の囲みを突破し、ゆうゆうと石山本願寺に兵糧を届けた。  毛利軍は、俺も作ったことがある焙烙玉をどんどん織田軍に向かってブン投げてきたらしい。これには織田軍もたまらず、撤退したが、俺は事前に、織田水軍の連中に向かって、船が焙烙玉で炎上したときの対処の仕方や逃げ方を教えていたため、織田水軍の兵たちの消耗は少なかった。  いっぽう毛利水軍は、兵糧を本願寺に届けることができたので、戦略的には勝利したが、しかし帰り道で、毛利軍の武将たちは思わず首をかしげた。 「焙烙玉が、ずいぶん少ないな」 「相当、投げましたからなあ」 「それにしたって。……いや、気のせいか……?」  その日の深夜。  闇に紛れて、小さな船が一艘、毛利水軍から離れていった。  五右衛門が乗っている船である。 「あっはっは、まんまとしてやったり、だな」  毛利水軍が戦っている間に、五右衛門は、毛利軍に変装した小舟を近付けて、毛利水軍の船から焙烙玉をたっぷりと盗んでしまったのだ。  この焙烙玉の中は火薬だ。  これを使えば、神砲衆はまた鉄砲を使える。 「おい、あの船、見ろ。怪しいぞ」 「追いかけろ! 追って、捕まえろ!」 「だめです。この夜の闇の中では――あの船、どうして夜なのにあんなに動けるんだ!?」  毛利軍は、五右衛門の船に気が付き、歯ぎしりしたようだが、時既に遅しであった。五右衛門の夜目と盗みの技術に、彼らは敗北したのである。  毛利水軍と織田水軍の戦い、これは第一次木津川口の戦いと呼ぶが、表面的には毛利軍の勝利。しかし裏では、織田軍の兵をそれほど損なわず、俺たち神砲衆も火薬を補給できた、という、ある意味では引き分けのような結果になったのである。  その後、織田家は石山本願寺と戦いつつ、紀伊国の雑賀衆を切り崩しにかかった。ときには利を説き、ときには情を説き、紀伊国は次第に織田家に取り込まれていく。その後、紀伊の中でも従わない勢力を討伐するため、天正5年(1577年)2月、信長は嫡子、信忠と共に出陣。紀州征伐が始まった。この戦いには秀吉や俺も参戦し、手柄を立てた。  だが、石山本願寺はまだ屈しない。  他の信長包囲網勢力も健在だった。  伊勢国で織田家に反抗を続けていた北畠具親は、信長の次男である織田信雄の軍に攻撃され、毛利家を頼って落ち延びた。毛利家は、いっそう反織田の旗色を強める。  いっぽう北国では、上杉謙信が勢力を強め、能登国に進出する気配を見せ始めていた。  これらの包囲網勢力と戦い続けるため、さすがの織田家も疲弊を始めていた。新田開発や道路整備、商業の活性化、武具や馬具、道具の新開発を進めるも、肝心の信長や主要な武将が戦いと政治に明け暮れるため、多忙なこと、この上ない。田園の開発も商業策もなかなか進まなかった。その上、安土城まで建設中なのだから、たまらない。  天正5年(1577年)3月には、信長は、京都御所の築地を修築している。京の都の町民や商人とも協力しあって行った工事だが、織田家も、もちろん銭と人間を出している。また金がかかる。 「足利将軍家に代わり、この信長が天下の采配を行うために、朝廷との繋がりは必要なのだ」  と、信長は言った。  この頃、信長は岐阜の佐久間信盛屋敷にいることが多かった。岐阜城は信忠に譲り、安土城はまだ建設中だからだ。安土に造られた仮屋敷にいることもあったが、岐阜に用事があるときはたいてい、佐久間屋敷にいたのだ。 「佐久間は若いころからの家臣。その家は我が屋敷も同様だからな」  などと信長は言ったが、実のところ、銭に余裕がないので、家来の屋敷に居候しているのが実情なのではないか。佐久間屋敷に居候していれば、自分と小姓の飯は佐久間家が準備するので、生活費を節約できる。 「仮にも上様が、セコいにもほどがあるやろ!」  なんてカンナは言っていたが、信長ってひとはときどき妙にセコくなるのである。これはもう性格としか言えない。  さて俺はその信長に呼び出されて、 「いよいよ織田家に銭がない。名案はないか」  俺はずばりと切り出された。  佐久間さん本人は天王寺砦にいるので、主のいない佐久間屋敷にて、俺は信長と向かい合い、難題を切り出されたのである。  いまの織田家を支えるほどの銭となると、ちょっとやそっとでは捻出できない。  となると、抜本的な経済対策が必要となる。  俺は考えた。正確に言えば、考えるふりをした。  このとき、俺が言う言葉なんて、決まっている。 「案ならば、ひとつございます」 「申せ」 「はっ、では」  俺は、告げた。 「安土の城下に、楽市楽座を設けましょう」
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