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第五部 第九話 手取川から逃げろ
信長が楽市楽座令を出した、そのわずか三か月後のことである。
――上杉謙信、動く!
知らせが織田の重臣たちの間を駆け巡った。
上杉謙信。言うまでもなく、越後国の戦国大名にして、武田信玄のライバルだ。
その戦闘の采配の神がかりぶりは、もはや伝説の域に達している。京の都や堺の町でも、天下の戦上手といえば、まず謙信、とさえ噂されていたほどだ。
その謙信。
この年(1577年、天正5年)の夏に進軍を開始。能登国の七尾城に襲いかかった。
七尾城主の長続連は、信長に援軍を要請。七尾城が落ちると、その先にある越前国はもう織田領である。信長はなんとしても謙信を、能登国で食い止めたいと思い、柴田勝家を総大将とした援軍を七尾城に向けたのだ。
数、おおよそ4万。
メンバーも、俺に、秀吉、それに滝川一益に佐々成政に前田利家、丹羽長秀らを揃えた、いわば織田家のフルメンバー。
ここにいないのは織田の御曹司たる織田信忠や、石山本願寺と戦っている佐久間信盛、丹波国の波多野家を攻める準備をしている明智光秀くらいのものだ。
「――まあ、これだけ揃えば、謙信といえども確実に蹴散らせるぜ」
越前国から七尾城に向かう途中、そんな風に軽快な口を叩いたのは馬上の前田利家である。
4万の大軍が、田畑の間をくぐり抜けて北上する。8月である。しかし、北国だけあって、吹き抜ける風はどこか涼しげだ。
「武田信玄も、そのあとを継いだ勝頼さえも倒した無敵の織田軍団よ。謙信も倒して、乱世最強を堂々と名乗ろうじゃねえか。なあ、山田?」
「そうしたいのは山々だが……」
「単純な男だ」
ぼそっと、やはり馬上の佐々成政がつぶやいた。
すると前田利家は目を剥いて、
「聞き捨てならねえなあ、内蔵助。オレっちたちが勢揃いして上杉を蹴散らそうってのが、そんなに不満か!?」
「単純だというのだ。信玄を倒したのは暗殺。勝頼を倒したときは大量の鉄砲があった。しかしいまの織田家にはそれほど武具の余裕がない」
「む……」
佐々成政の言葉には一理あった。
戦い続きの織田家は財政難なのである。その財政難を解決するための楽市楽座令であり、出羽商人との交易なのだが、それらの商業行為が実を結び、実際に織田家の収益となるまではもう少し時間がかかる。
だからいまの織田家には鉄砲があまりない。
正確に言えば、鉄砲のための弾丸や火薬が少ない。
毛利家の軍船からぶんどったものでは、まだまだ足りない。
まして相手が上杉謙信となれば、猛烈な量の武器や火薬が欲しいところだが――ないものはないのだ。
「長篠の合戦は、ずいぶん貧乏をしたからな」
滝川一益が、やはり馬上でぽつりと言った。
「あんな戦いはそう何度もできるもんじゃねえよ。やってたら、戦には勝っても食う飯がなくならあ」
「あんたの場合は、飯じゃなくて酒じゃないのか?」
「もういまは飲んでねえよ。……おい、前を見て馬を操れ、前田」
「とっとと……悪い、悪い……」
軽口を叩き合う織田軍団だが、滝川一益の言い分はもっともなのだ。
長篠合戦は大金を消費した。そう何回もできる戦い方ではない。
史実でも、織田家が長篠以来、大量の鉄砲や馬防柵を使った作戦がないのは、金も手間も異様にかかるからだ。そうそうできることではないからだ。武田勝頼は、それだけの敵だった、ということもあるのだが。
「じゃからわしは上様に、もっと早く中国攻めをしようと言うておるのよ」
秀吉が会話に入ってきた。
「毛利領には銀山がもっとあるんじゃ。その銀を取れば、楽に戦ができるし、弥五郎やカンナに頼んで増やしてもらうこともできるでの。もっとも上様は、毛利攻めをするおつもりではあるようだが、あと一歩、煮え切らぬ」
「公方がいるからだろ? 足利義昭がいる毛利家を攻めるのに、まだどこかためらいがあるんだよ、上様は」
「ふうむ、あんな男にのう……」
「口を慎めよ、羽柴。あんな男でもいちおうはまだ将軍様だ。あまり滅多なことを言うもんじゃねえ」
「わしはそこがなにより気に食わんのよ。智恵もなければ勇もない男、それなのに、ただ将軍の血筋というだけで人々は崇める。本人も我こそは将軍だと威張りくさる。世の中とは妙なものではないか。もはや乞食同然の男が、将軍という肩書きがあるだけでみいんな土下座じゃ。世の中がこうだから、いかんのじゃ。なぜ世間は公方をこうも崇める。半兵衛からずいぶん教えてもろうたが、そもそも足利将軍の家族とその取り巻きがもっとしっかりしておれば、これほどまでに醜い乱世になりはせんかった……」
「羽柴殿、そろそろおやめなさい。士気に関わる」
ずっと黙っていた丹羽長秀が、温厚な口ぶりで秀吉をたしなめた。
さすがの秀吉も、丹羽長秀には逆らえず「ははっ」と頭を下げて押し黙った。滝川一益は眉を上げ、前田利家がニヤニヤ笑った。
家中の禄や出世具合でいえば、丹羽長秀はそれほどではないのだが、信長と縁戚関係にあることや、信長と仲がいいこと、そして丹羽長秀自身の長老然とした人となりのおかげで、自然と家臣団のリーダー的存在となるのである。
「む……おう、なんだ、ありゃ。……おい、あの森、怪しいぞ」
秀吉の隣に従っていた蜂須賀正勝が、彼方に見える森林を指さしながら言った。
「なんだよ。オレっちにはなにも見えねえぞ」
「……いや、蜂須賀の言うとおりだぜ。あの森、なにか臭い」
滝川一益まで言ったことで、全員が警戒を開始した。
丹羽長秀が手を挙げ「全軍、いったん止まれ! ……本陣の柴田どのに使いを。森に伏兵の気配が――」と言った瞬間である。
バラバラバラバラ!!
鉄砲玉が、何百発と降り注いできて、織田軍の雑兵を倒していった。
しかもそのうちの一発が、――ヒュン!!――と、秀吉の顔の横をかすめていったものだから、俺は蒼白になり、
「藤吉郎、無事か!」
「おう、いま弾丸が確かに、鼻の先をかすめていきおったわ! わっはっは、わしの気迫に怯えてあさってのほうへ逃げていきおったがのう!」
笑い飛ばしている。
さすが秀吉だ。こういうときに慌てては、家来の士気が下がるだけだ。彼が笑えば、周囲の者はみんな安心する。……しかし、危ないことは危ない。
「藤吉郎、いったん下がれ。ここは俺たち神砲衆が戦う。リボルバー、構え!」
俺の家来、15人がリボルバーをいっせいに構えた。
神砲衆の中でも特に鉄砲に慣れた者たちだ。
「撃て!」
俺の号令が下ると共に、神砲衆リボルバーが火を噴いて、森の中から悲鳴が上がる。
弾丸の雨が、ぴたりと止んだ。
「よし、いまだ。滝川が進む。かかれ、者ども!」
「オレっちもいくぜ。前田衆、蹴散らせ!」
滝川一益と前田利家が、森の中に突っ込んでいく。
しばらく、戦いの声が森林の中から聞こえたが、やがて止む。
そして森林の中から、十数人の兵が声をあげながら飛び出してきて、北へと逃げていった。
「上杉勢か。追いかけるか、藤吉郎?」
「いや、捨て置いてよかろう。……上杉の物見か。それも鉄砲で奇襲をかけることで、こちらの士気や反応を確かめおった」
威力偵察、ってところか。
やがて滝川一益と前田利家が、戻ってきた。
「ちくしょう、もっと鉄砲を持っているかと思ったがよ、古い火縄銃しか持っていなかったぜ。ブン取りたかったがなあ」
山賊みたいなことを言う前田利家であった。
滝川一益は、ふところから布切れを取り出して、顔の汗を拭きながら、
「数、おおよそ50。そのうち14を討ち取り、21を捕らえた。捕まえた連中をどうするか、柴田の大将にお伺いしなくてはな」
「いい頃合いだ。兵の休息も兼ねて、いったんこのあたりで行軍を止めよう」
佐々成政の提案は健全だった。
織田軍はいったん、歩みを止めた。
今回、俺は伊与と家来50人を連れてきている。
カンナは商売をやっているし、五右衛門も次郎兵衛もカンナのほうにつけているから、俺は伊与とふたりきりで、石の上に腰かけて、握り飯を頬張っていたのだが、
「ところで俊明。この戦い、織田軍が敗北するのだろう?」
伊与が、梅干しを食べながら尋ねてきた。
「ああ。手取川の戦いといってな。上杉謙信と柴田勝家が戦って、まあ、柴田さんは負ける。……ここで勝ってしまうと、またのちの展開が読めなくなるから、負けることは仕方ないんだが、柴田さんや前田さんが、万が一にでも討ち死にしたらまずい」
なにしろ、俺が動かないと史実通りにならないことが、よくあるからな……。
「だから俺としては、全体として負けるとしても、生き残るべき人には生き残ってほしいんだ」
「それはそうだろうが。……そして、藤吉郎さんが戦う前に撤退する流れになるんだろう?」
「そのはずなんだ」
今回の戦いが開始する直前、羽柴秀吉は柴田勝家と意見を対立させ、勝手に兵を引き連れて撤退してしまう。
敵前逃亡と言われても仕方が無い、秀吉のヤラカシである。当然、これに信長は激怒する。秀吉が撤退したあとに、柴田軍が負けるのだから余計にそうなる。
「なぜ、藤吉郎さんは撤退してしまうんだ?」
「理由はよく分かっていない。柴田さんと仲が悪かったから、と伝わるが……」
しかし秀吉は、苗字の『羽柴』に柴田さんの柴の字を加えている。
これまで俺が見る限りでも、別に柴田さんと秀吉は、異様なレベルで不仲だったことはない。秀吉と不仲ならば、滝川一益や佐々成政のほうがよっぽど険悪な空気だったりする。
「今後どうなるのか、あと一歩、読めない。いまのところ、動きようがない。……せめて、細かく戦況を把握することに務めるしかない……」
俺たちと交戦した上杉軍の威力偵察勢の残りは、そのまま一気に、謙信のいる能登国へ戻ってしまったらしい。
「謙信も、我々を恐れておるわ!」
柴田勝家は、重々しくも、全軍を鼓舞するかのような威勢のいい言葉を吐き、
「軍をゆっくりと前へ進めよ。いざ決戦というときに、疲れていてはなんにもならぬからの。進みつつ、二度と伏兵に襲われぬよう、村や森を焼き払え」
織田軍は、越前から加賀、さらにその先の能登に向けて進んでいくが、加賀を進軍している途中、田畑や森林、村々を焼いて見晴らしをよくしつつ、前へ進んだ。……加賀を平定したのちは、村人たちにたっぷりと銭を振る舞わねばなるまいな。
そして――
手取川を越えたあたりで、能登国七尾城が陥落したことを知った織田軍は、再び進軍を停止。軍議に入った。
「救援すべき七尾城はすでに落ちた。かくなる上は、謙信との激突は避け、南まで軍を退けるべきと判断する」
柴田勝家は、冷静な声で言った。
すると滝川一益も、
「柴田殿の言う通りだ。上杉軍は先日、オレたちを襲ってきた。あれはわずかな数だったが、やつらがうろついていたことを思えば、謙信はすっかり、加賀国の地形や情勢を把握してしまっているに違いないぜ」
「対してこちらは、加賀のことをまだよく知らぬ。そのあたりは、七尾城の長氏に教えてもらう予定だったからな。……地の利は敵にある。さらに七尾城を落としたばかりで意気も盛んだろう」
と、これは佐々成政。
すると前田利家も、うんとうなずいて、
「並の敵なら知らず、あの謙信がじきじきにお出ましとあれば、激突はかなり分が悪いぜ」
強気な前田利家でさえ、撤退を論じた。
これで軍議はまとまりかけた。……なんだ、戦わずに撤退か。
やや拍子抜けだが、このほうが血が流れずに、良いかもしれない。……と思ったときだった。
「なにを申されるか、皆の衆!」
なんと秀吉が、大声を出し始めたのだ。
「織田に救援を求めた七尾城が落とされたというのに、一戦も交えずに退却したとあっては世間の笑いもの。今後、加賀や能登の大名小名や豪族、民草に至るまで、二度と織田家の味方はしてくれまいぞ」
「筑前――」
柴田勝家が目を丸くする。
意外なやつが意外なことを言う、といった顔だった。
正直、俺も驚きながら秀吉を見ていた。
「七尾城を落としたばかりで意気盛んと内蔵助(佐々成政)は言う。それも一理あるけれども、逆に言えば、敵は戦いを終えたあとで疲れ切っているとも言える! 兵糧もずいぶん食ったあとであろう。いまだからこそ、上杉は倒せる。そして謙信を倒したとあれば、上様の武名、織田の名声、いよいよ天下に鳴り響き、天下布武への道は完全に定まるのでござる。そう思われぬか、皆の衆」
懸河の弁とはまさにこのことか。
流れるような秀吉の弁舌に、場は飲まれた。
一理ある。
と、誰もが、特に秀吉嫌いの滝川一益や佐々成政でさえ、そう思ったような顔色だった。
確かに、ここで一度も戦わずに撤退しては、織田の名前が廃れる。能登も加賀も完全に謙信のものになってしまうだろう。ならばここで一度、戦うのもありかもしれない。そう考えるのもひとつの案なのだ。
「半兵衛よ」
秀吉は、背後に控えていた竹中半兵衛に声をかけ、
「上杉軍の数は?」
「およそ20000」
「で、ござるよ、柴田どの。こちらは40000。上杉は20000。それも戦いが終わって、疲れている20000でござる。地の利が敵にあろうとも、恐れるものではござらん。ここは一戦するべし。わしはそう思いまするぞ。なんなら、このわしが先陣を切ってもようござる!」
そうか……!
その言葉で、俺は秀吉の真意は読めた。
秀吉は、手柄を立てたがっている。……秀吉は、中国地方の毛利家が支配下に置いている銀山が欲しい。銀山を取るべきだと思っている。それが織田家のためだと確信もしている。そのために、自分が大将となって、毛利家を攻めたいのだ。
その毛利攻めの総大将の役目が欲しいために、この戦いで武功をあげたいのだ。
毛利攻めの総大将は、おそらく秀吉だと家中の噂だが、完全に決まってはいないんだからな。
しかし――
秀吉が先陣?
「筑前の言い分も、もっともである」
柴田さんは、大きくうなずいて、
「わざわざ加賀までやってきて、味方を救えず、そのまま一戦も交えずに越前まで引き下がるようでは、天下の恥さらし。ここは一度、謙信と戦をするもよし」
「さすがじゃ、柴田どの。では先陣は、この羽柴筑前にお任せを――」
俺は嫌な予感がした。
本来ならば柴田勝家とケンカをして、退陣するはずの秀吉が先陣だと?
ざらりとした。心がやすりがけされているようなこの感覚。よくない。このままいけば、秀吉は恐らく大変なことになる、という直感。
だから。
だから、俺は――
「ま、待った!」
声をあげた。
誰もが俺の顔を見る。
柴田勝家以下、織田の諸将も。
伊与も、秀吉も、――竹中半兵衛も。
「俺は、戦に反対です。相手は謙信。引いても決して恥ではない相手。今回は退くべきと存じます。もしも戦うというのであれば、――俺は、俺の家来だけでも連れて、この場を退陣する所存!」
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