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第五部 第十一話 松下嘉兵衛、再登場。そして愛娘の縁談。
天正5年(1577年)10月23日、羽柴秀吉は播磨国(兵庫県)に向けて出陣。
播磨国の諸豪族は、織田家と毛利家の二大勢力、どちらにつくかで決めあぐねていたが、どちらかといえば毛利家につく勢力が多かった。
そこへ羽柴軍が到着。
信長から与えられた援軍や与力衆を味方にした秀吉は、瞬く間に播磨国の敵対勢力を打ち倒していく。
いっぽうで、播磨の隣国である但馬国にも秀吉は侵攻した。
但馬国は戦国大名、山名家が支配していたが、山名家中は織田派と毛利派で派閥争いを続ける始末。そこに目を付けた秀吉は進軍し、複数の城郭を攻略。その後、但馬国には弟の小一郎を配置した。
そして同じころ、そう、天正5年(1577年)11月20日には、織田信長が右大臣に任じられる。
過去最高の官位となった信長は、もはや織田家の頭領ではなく、天下の頭領となっていった。
さて、そんな織田家と羽柴軍の快進撃が続く中、この俺、山田弥五郎はというと――
「来年も、よろしくお願い致しまする」
「いえ、こちらこそ。来年もよき取引ができますように」
建設中の安土城。
その城下に建てられた山田屋敷で俺は、年の瀬のあいさつに訪れてきた武士や商人に対応していた。
「おぉーい、弥五郎~。堺から送られてきた反物は、裏の蔵に入れていいんだよな~?」
客人が退出した瞬間に、五右衛門が室外から声をかけてきた。
「蔵はもういっぱいだ。俺の寝室で構わんから、そっちに入れておいてくれ」
「そんな雑な扱いでいいのかよ。うちが盗んじゃうぞ~」
「それもそれで構わん。適当にいくつか持っていってくれ。五右衛門は今年、よく頑張ってくれたからな。……ああ、あとで堺に礼状を出さないといけないから、どこの反物かだけ、あとで教えてくれよ」
「豪儀だねえ。冗談、冗談。反物なんざ、いらないよ」
五右衛門の気配が消えた。
「……ふう。……なあ、カンナ。今日はあと何人、客が来る?」
「20人以上、控えとるばい。どうする? あんたが疲れとうなら、……でもあたしも伊与も疲れとるんよ。樹にでも代役ばさせるね?」
「いくら娘でも、そりゃ相手に失礼だぜ。……分かった。あと20人、頑張ろう。……伊与、大丈夫か?」
「身体は大丈夫だが、心が疲弊している。こんなにも人と物が来るとは」
伊与でさえ、げっそりした顔を見せていた。
俺たちは疲れきっていた。
秀吉の進軍に合わせて、兵糧や武器、弾薬、医薬品などなどを播磨に送るため、俺たちは安土や長浜で連日連夜の兵站仕事を続けていた。
そのかたわらで、信長のいる安土城に登城しては、城下の楽市楽座について相談にのり、ときには丹波の明智軍にも兵糧を送り、越前の柴田軍や石山攻めをしている佐久間軍にも武具を送ったり、しなければならない。
それらが終わったら、安土の山田屋敷に大量の客が訪れる。
休む暇もないとは、このことだ。
けっきょく、客人がいなくなったのは、太陽もとっくに沈んだ、おそらく午後七時くらいのことだった(時計がないので正式な時刻は分からない)。
「終わった。飯だ。飯をすぐに持ってきてくれ!」
「はい、すでに出来上がっております」
あかりが良いタイミングで入ってきた。
夕食が届いた。
季節の野菜と魚を味噌で煮た、煮込み汁。
鴨をはじめとする鶏肉を塩で焼いたもの。
それに複数の漬物に、すりつぶしたクルミが和えてある。
しかし、なによりも俺の心にそそるのは、茶碗いっぱいに盛られた白飯だ。
「いただきます!」
「「いただきます」」
こんな挨拶、戦国時代にはないのだが、俺は思わず使ってしまう。そんな俺流に染まった伊与とカンナも、いただきますと言ってしまうようになっていた。
そのまま、白飯を頬張る、頬張る。
美味い、美味い。美味い、美味い!
「はああ、生き返る……。美味しいよ、あかり」
「良かった。ありがとうございます。そう言っていただけるのが一番うれしゅうございます」
「若いころは、ボソボソの麦やらヒエでも、お腹いっぱい食べられたら、それだけで幸せだったが」
伊与も、はしを動かしながら、
「年を取ったものだ。白い米のひとつぶひとつぶが、本当に美味だ」
「ありがたいことよ。欲しいと思ったら白いごはんが食べられるち、最高やないね」
カンナもほくほく顔である。
この時代、普通の庶民が食べるのは麦飯やら、ヒエやらアワやらである。
精米技術も進化していないこの時代、白飯を食べられるのはよほどの上流階級だけだった。……それができる身分になったんだからな……。
だだっ広い山田屋敷の一室。
床には畳が敷かれ、絹の衣服を身にまとい、寒いと思えば炭を使い、空腹を覚えれば白飯が食える。手を叩けば誰かが参上し、夜にはあたたかな寝具の中。
ぜいたくのためだけに、出世したわけじゃないが。
それでも、心地よいのは確かだ。
伊与が言うように、若いころなら、板張りの部屋にヒエ・アワで平気だったんだけれどな。
そのときであった。
「父上」
部屋の外から、声が聞こえてきた。
樹の声だ。
「どうした、樹。入ってこいよ。いっしょに食べようぜ」
「夕飯ならば、もういただきましたけん。それよりも、お客様が来られとるとよ」
「お客様? こんな時間にか?」
「約束もないのやったら、断ってええんやないの?」
カンナが眉根を寄せるが、
「いやまあ、相手にもよるからな。それで樹、そのお客様は誰だ?」
「徳川家の松下嘉兵衛様と名乗っとりますよ?」
「松下さんが!? 馬鹿、それを早く言えよ。通せ、通せ。うん、奥の間に通せ!」
「懐かしい方の登場だな。何年ぶりだ?」
「長篠合戦のちょっと前に会ったとき以来よ。どうしたんやろ、急に」
伊与もカンナも、昔なじみの登場とあって顔をほころばせている。
俺だってそうだ。あかりに、茶と菓子を持ってくるように頼みながら、衣服を整えて、奥の間へと向かった。
「やあ、弥五郎。急にやってきてすまない」
「松下さん、お変わりなく」
奥の間に登場したのは、口ひげこそ生やしたものの、相変わらず穏やかな顔が印象的な、あの松下嘉兵衛さんであった。若侍をふたり従えて、腰には脇差だけを差した姿である。
「長浜、それから安土に寄ったついでさ。弥五郎がこの屋敷にいると聞いてね。昔語りでもせんと思ってやってきた」
「松下さんなら大歓迎ですよ。ゆっくりしていってください」
いまでは徳川家の家臣となっている松下嘉兵衛さんは、徳川家と羽柴家、または徳川家と織田家の間に連絡事項があるときは、使者の役目をすることが多い。もちろん、俺や秀吉との旧縁があるからだ。
徳川家が織田家に正式な使者を送るときは、重臣の酒井忠次や石川数正が、岐阜なり安土なり、京の都なりに向かうのだが、重大な話でもないときは、松下さんがやってくる。
「どうですか、食事でも。美味い白飯が炊き上がっているんですよ」
「ほう、贅沢な。さすが神砲衆は豪奢だね。では、ありがたくいただこうか。ついでに塩の効いた梅干しでもつけてもらえるとありがたいけれど」
「ええ、ええ、もちろん。遠慮なくどうぞ。……誰か。台所のあかりに、飯を持ってきてくれと伝えてくれ」
「はっ」
部屋の外に控えていた若侍が、台所へと向かっていった。足音で分かった。
「松下さんが長浜と安土に来られるちゅうことは、商いの話でもしにきたとですか?」
カンナが尋ねると、松下さんはうなずいて、
「うん、それもある。三河や遠江の産物を、北国に送るため、また安土の楽市に並べるために、長浜と安土まで参ったわけさ。――長浜では藤吉郎の内儀と話をしたが、ふふ、藤吉郎め、近ごろはずいぶんと女癖が悪いそうだね?」
「ああ……」
俺は頭をかいた。
少し前に、秀吉と、その正室のねねさんは夫婦で大げんかをやらかしたのだ。
とにかく秀吉が、女をよく囲うのだ。つまり浮気である。
「藤吉郎にも言い分はあるのですよ。あそこには子供がいない。だから羽柴家の跡継ぎを作るために、女を囲っている、と。……とはいえ、ねねさんは藤吉郎と大恋愛のすえに結びついた間柄。それで亭主が浮気するものだから、おかんむり、というわけです」
「上様みずから、裁定をされたとも聞いたよ?」
「ええ、本当ですよ。織田信長公みずから、藤吉郎はけしからん、けれどもねねさんもそう怒らずにどんと構えていなさい、とお伝えになったのです」
「あの上様に夫婦げんかの仲裁をさせるとは……。噂だと思っていたが、本当だったとはねえ。……おお、ありがとう。……あかり、そなたとも久しぶりだね」
「お久しゅうございます。覚えていていただいて、恐悦に存じます」
夕飯を運んできたあかりが、松下さんに会釈をする。
あかりが、松下さんに酌をする。松下さんは嬉しそうに、小皿に注がれた清酒を口にした。
「美味い。さすがに上方の酒だ。……はて、弥五郎は下戸だったと記憶しているが」
「いまでも下戸です。お客様が来られたときだけ酒を出しているのですよ。しかし今日は楽しい。俺も一献、いただこうかな」
「あら、山田さまが珍しい……。ではお皿をもっと用意して参ります」
あかりが立ち上がり、一度台所に下がってから、皿を持ってきた。
「伊与たちもどうだい。ここは一献」
「よろしいのでしょうか。では、いただきます」
「したら、あたしも。……正月以来に飲むんやけど、あたし。あはは」
「あかり。そなたも飲め。気にすることはない。某たちの仲ではないか」
「は、はい。それでは、少しだけ……」
俺に伊与、カンナ、松下さん。それにあかりまで揃って、珍しく酒を嗜んだ。
本来、日本酒は薄い皿で、舐めるように飲むものだ。21世紀では、おちょこやぐい飲みのほうが目立つが、ぐい飲み、と称するくらい、本来あのサイズの器は、日本酒を飲むには大酒飲みの器なのだ。
「ところで安土まで来られたのは、楽市の話だけですか?」
「無論、他にもある。……うん、弥五郎たちが相手ならばいいだろう。……我が殿(徳川家康)は、上様を鷹狩りに誘ったのだよ。来月か再来月にでも、三河で鷹狩りをしようと言っておられる」
「ほう、鷹狩り……」
「三河の吉良のあたりに、良い狩り場があるそうだ。それでお誘いされたのだろう。もちろん、ただの鷹狩りではなく、直に会えば大小さまざまなことを語り合うのだろうが、そこまでは某も知らぬことさ」
「ごもっともです。武田勝頼もなかなかにしぶとい。武田を討ち滅ぼすために、織田の援軍を催促されるのかもしれませんね。藤吉郎の播磨攻めも順調に終わりましたし」
先の展開を知っているくせに、俺はいけしゃあしゃあとそんなことを口にする。
こういうとき、自分を嫌なやつだなと思ってしまう。
「さて、どうかな。上様には石山攻めもあるからね。そうそう徳川に援軍を寄こせるかどうか。……ところで弥五郎。実はここからが本題なのだが」
「本題? ……さて、いったいどのような」
突如、話の空気が変わったので、俺は酒皿を置き、
「語りにくいことならば、人払いを致しますが」
「いやいや、それほどのことではないよ。……実はねえ、その」
松下さんは、困ったように笑いながら、
「先日、駿河の商人が某のところへ参ってね。……いや、その商人はなかなかのやり手、船をあやつっては西に東に、交易を繰り返してなかなかの財を築いた男なのだけどね。末はなんと、明だのルソンだのシャムだのにまで、商いの船を繰り出そうかと考えている、希有壮大な人物でもある」
「商いの話ですか」
「いや、それもあるんだが。……つまりだね、その男には、御年十八になる息子がいる。これもなかなか、頭が回る良い男なのだが、……直入に言おう。弥五郎、そちらの娘の樹を、この息子と夫婦にしてみないか?」
「「「はっ!?」」」
これには俺も伊与も、カンナさえも仰天してしまった。
あかりだけが、さほど驚きもせず「まあ、めでたい」と笑みを浮かべている。
俺は、慌てて、
「い、いや、樹を、あれを、駿河商人とですか? はあ、考えたこともありませんでしたが、しかしあれは、そう、あれがどう言うか。会ったこともない男と……」
「あれ、あれと言うなよ。自分の子供を。……会ったこともない者と夫婦になるのは、普通だろう。色恋話の末に夫婦となった、山田家や羽柴家のほうが珍しいんだ」
「はあ、色恋話。確かに藤吉郎はそうでした。いや、でも確かに俺も……。そう、松下さんと出会ったころ、あの山奥の温泉でカンナが――」
「いたらんこと口にせんで、よか! あたしたちのことはよかろうもん。それよりも樹の話たい、樹の!」
カンナが顔を真っ赤にして叫ぶ。
伊与は、冷静さを取り戻したのか、涼しい顔で、
「樹に商家の嫁が務まるだろうか。我が娘ながら、かなりの気ままに育ってしまったからな」
「なあに、伊与。商家の嫁といっても実際に商売をやるわけじゃない。その点、やはり神砲衆が珍しいんだ。……先方は、心身共に健康な若い娘であれば、それでいいのだ」
「と同時に、織田家と羽柴家御用達の商家となった山田家との繋がりも欲しい、ということですか」
「まあ、はっきり言えばそうだね。……伊与、そんな顔をするのはよしてくれ。家同士の繋がりとはそういうものだよ。先方も徳川や北条など、東国の大名と広く繋がりを持つ商家だ。……あちらと繋がりを持つのは、山田家にとっても、織田家にとっても、悪い話ではないと思うけれども。……どうだい?」
松下さんから急に切り出された、樹の縁談。
これまで樹の結婚話は、ときどき出てきては、樹本人の意思だったり、俺や伊与の意思だったりで、消えてしまってばかりだった。結局は俺たちが、娘を溺愛してしまっていたからだろう。
しかし、樹だって、桶狭間の翌年に生まれた娘だ。
今年で、満年齢でいえば16歳。この時代でいえば立派な適齢期。
むしろ、適齢期を少し過ぎたとさえいえる。この年齢で結婚もせず、だからといって仕事も特にしていないのは、あまり良い状態ではない。
俺も伊与もカンナも、あかりでさえも、10代前半でもう仕事をしていたんだからなあ。
炭売りだの行商だの戦いだの、宿の娘だの。よくみんな、あの若さでやったものだと思うが……。
とにかく俺は決断しなければならない。
娘に、どういう未来を与えるのか。
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