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第五部 第十三話 古き秩序の崩壊
天正6年(1578年)、正月。
早々に、俺の長女、樹の縁談話が進む。
駿河商人の絹屋が使者を俺のところに送ってきたので、俺は伊与や樹と話し合いながら、婚礼の時期や中身について話を進めていった。
「一度、駿河に行かなくてもいいか?」
俺が、樹に尋ねる。
「駿河はまだ武田領だ。絹屋さんは徳川家と繋がりが深い商人だから、武田家も無茶なことはしてこないと思う。……どうだ? 俺は駿河なら一度行ったこともあるし、案内できると思うが」
「大丈夫やけん、父上。松下さんを信頼しとるし、もう決めた婚姻話やけん。駿河に行かんでも、この話は進めて大丈夫よ」
「そ、そうか。ならば、良いが」
「落ち着け、俊明。樹よりもお前のほうが不安そうだぞ」
伊与から突っ込まれた。
「うるさい。娘の婚姻だ。不安にもなる」
「だったら話を進めなければいいのに。……ちょっと前はお前のほうが堂々として、松下さんのお墨付きだから大丈夫だと言っていたのだぞ」
「それはそうなんだが、実際に話が進むとだな。……分かった、分かった。駿河行きは無し。このまま安土で話を進める」
というわけで、俺は駿河の絹屋さんと使者を飛ばしあい、あるいは手紙を交換しながら樹の縁談話を進めていったわけだが、1月の上旬、ふと思いついたことがあり、安土までやってきた絹屋の使者に尋ねてみた。
「もしや、駿河ではいま、鉄が安くなっていないか?」
「は、さすが、よくご存知ですな。駿河では鉄が安くなっております」
「弥五郎、すごかね。なして分かったとね?」
俺の隣にいたカンナが目を丸くした。
「武田家の黒川金山が、枯渇し始めている話はしたな?」
「うん、前に聞いたばい」
「金が出なくなった、ということは他のなにかを無理やりにでも銭に変えなければ、武田家は褒美に銭を出せなくなる。かと言って、武田領は米が獲れる土地柄でもない。米を売ることもできない。となれば、あとは、銀、銅、鉄……。領土の中に蓄えている、黄金に準じるものを手放していくより他はない」
「なるほど! さすが弥五郎やね、素晴らしい読みやん。さすがやん! ……そうかあ、それで武田家が鉄を手放しよるから、隣国の駿河で鉄が増えて、相場が安くなりよるんやね!」
「ふむう、そういうことでしたか。鉄がやけに市場を行き交いしていると思っていましたが、武田がひそかに横流しを始めていたのですな。いや、さすが神砲衆の山田弥五郎様。そこまで流れを読めるとは!」
「いや、なに……」
カンナと絹屋の使い、両方から褒められて、俺は少し照れたが、
「それよりも、話がある。絹屋さんに頼んで、その鉄、大量に仕入れて、安土に――いや、津島に送ってくれないか? それともうひとつ、駿河や遠江の米屋を巡って、米を買ってほしい。そして、それも津島に送ってくれるように頼んでほしい。無論、銭は出す」
「それは承りましたが、なぜ、そのような……」
「悪いが、理由は言えない。ただこれは、織田家御用達の山田弥五郎の頼みと受け止めてほしい」
「は、ははっ。確かに主に伝えておきます!」
使者はぺこぺこと頭を下げた。
カンナはキョトンとしていたが、
「……ねえ、あたしには後で、理由を教えてくれるやろ?」
「もちろんだ。そりゃ、カンナにはな」
俺は片目をつぶった。
絹屋の使者は、ひたすらに平伏していた。
変に突っ込んでこないのが、良い使者だと俺は思った。
「鉄は、船に使う」
その日の夜。
屋敷の片隅で、俺は伊与とカンナに向けて、話した。
「以前、毛利家と織田家が水軍で合戦したことがあったな?」
「五右衛門が活躍したあの船戦よね?」
「そうだ。あの後、信長は配下の九鬼嘉隆に命じて、水軍の強化を開始している。来月にも、九鬼水軍は新しい船を何艘も作り上げるはずだ。だが、それだけでは毛利に勝てない。……そこで俺が進言する。船に鉄板を貼り付ければいい、と」
「「鉄の船……!?」」
伊与とカンナが、顔を見合わせた。
「なんちゅうことを考えとるんね、アンタは。船に鉄板を貼り付けても、浮かぶはずなかろうもん」
「ところが浮かぶんだな。そこは俺に任せてほしい。うまくやれる。……とにかくそのために、鉄を駿河から仕入れるのさ」
「なるほど、そういうことだったか。では米のほうは?」
「羽柴軍に送るための米だ」
「どういうことだ?」
「間もなくだが、播磨の別所氏と、摂津の荒木氏が織田に対して謀反を起こす」
「なんだと?」
伊与は目を丸くした。
「あれ、まだ言っていなかったか。……これは歴史的な事実だ。このままいけば、播磨の別所長治と、摂津の荒木村重が織田信長に対して反乱を起こすんだ。そうなると、播磨国にいる羽柴軍の兵站が成り立たなくなる。兵糧が不足する。そうならないうちに、俺から藤吉郎に米を送っておくのさ」
「荒木村重か。……多少、因縁のある相手だ」
「……だな」
俺と伊与がそう言ったのには、理由がある。
かつて、和田惟政さんを俺たちが救った白井河原の戦い。
あの戦いで、和田さんは足利義昭側について戦った。
だがあのとき、反義昭側として戦ったのが、荒木村重だったのだ。
つまりそのときは、俺たちの敵だったのだ。
もっとも当時、俺たちが直接戦ったのは、荒木村重の仲間だった中川瀬兵衛だったが。
あれから時は流れて、荒木村重は織田信長の配下となり、中川瀬兵衛は荒木の与力となった。つまり織田家臣となった。とはいえ、俺は荒木とは一面識もなく、中川瀬兵衛ともあれ以来、仲間として話をしたことがない。
その荒木が、今度、信長を裏切ってしまう。
理由については、後世でも不明なのだが――
「弥五郎の言いよることはよう分かったばい。とにかく、いまのあたしたちのやることは、毛利の水軍相手に戦うために鉄の船を作る――」
「正確には、鉄の船を作るために鉄を調達しておき、船作りの助言をする」
「うん。そして、荒木村重と播磨の別所氏が謀反を起こすことに備えて、藤吉郎さんのために兵糧を準備しておく。そういうことよね?」
「そういうことだ。……荒木や別所が謀反を起こさないようにできたら、それがいいんだろうが、正直、それは難しそうだからな。これまで俺は荒木とも別所とも接点をもてなかったし、それに――」
「あまり歴史と違うことをすると、先の展開が読めなくなって困る、だろう? みなまで言うな。……分かっているよ、俊明の考えていることは。大丈夫、お前の決めたことなら必ずうまくいくさ」
「そう言ってくれると助かる」
何十回目か分からないほどの、伊与の励ましが嬉しい。
こうして俺は、次にやるべきことをさだめ、動いていくことにしたのだ。
この動きは、予想よりも早く織田家の役に立った。
伊与とカンナに話をしてからわずか数日後、安土城の仮屋敷にいる信長からお呼びがかかった俺は、さっそく登城した。信長は、俺に会うなり、
「山田、智恵を出せ」
と、短く用件を伝えてきた。
「はっ。九鬼水軍の船作りのことでございますか」
俺は、すぐに答えることができた。
信長は口数が少なく、結論だけをさっと言うことが多い。
これに対して、こちらもさっと、信長が望む答えを出さなければならない。出さなければ、信長は機嫌が悪くなる。
信長は、俺の答えに対して、にこりともせずに、
「そうだ。毛利水軍を倒すための船造りを進めておるが、うまくいかぬ。なにか妙案を出せ」
「されば」
俺は鉄甲船の話をした。
すると信長は「ほう」と目を見開き、
「できるか、左様なことが」
「鉄の船でも工夫次第で海に浮かびます。その船に鉄砲を無数に載せれば、強力無比にして、三国一の軍船として毛利水軍を海の藻屑とすること、必定かと」
「言うわ。山田、そちは言うことが藤吉郎に似てきた」
信長は愉快そうに笑い、
「山田ができるというなら、できるのだろうな。いいだろう、いまから伊勢に向かい、九鬼水軍に鉄の船の作り方を教えてやれ。それにしても、山田弥五郎、さすがに武具作りについては天下一品よ。どこから左様な智恵が出てくるのじゃ?」
「は。……頭の中に、泉が湧いている、としか答えようがありません」
まさか未来の知識とは言えずに、俺はそう言った。
信長はにやにや笑って、
「泉か。羨ましいものだ。余の頭にもそのような泉があればさぞ楽しかろう」
「いいえ、上様にはまた別の泉があります。柴田さんに丹羽さん、藤吉郎や久助といった、古今無双の名将たちを使いこなす、采配の泉が。こればかりは俺がはしごをかけても及ばぬところで」
俺は本気でそう思っていた。
数多くの家来衆を使いこなす、武将としての器。
当たり前のことだが、これについては、俺ではとうてい織田信長には及ばないのだ。
「そうか、余には采配の泉があるか。そう評してくれるか」
信長は上機嫌であった。
信長の機嫌がいいと、俺も嬉しい。
そのときである。
若い侍が、部屋の前にやってきて、
「申し上げます。明智十兵衛さまがおいでになりました」
……明智光秀?
「おう、明智が来たか。構わん、ここへ通せ。山田も残れ」
「はっ」
二分と経たないうちに、明智光秀が、近侍をひとり従えて、部屋に現れた。
俺は無言で会釈をする。明智光秀も、俺をちらりと目で見たあとで、
「上様におかれましては、今日も大変ご機嫌うるわしゅう……」
「長いあいさつは良い。用件を手短に申せ。山田がおるが、構わん」
「はっ、それでは。……右大臣辞任の一件、滞りなく進んでおりまする。春には辞任できるかと」
「うむ」
「右大臣辞任、でございますか」
俺は信長の顔を見た。
驚きはしない。これは歴史的な事実だ。
去年、右大臣になったばかりの信長だが、その翌年である今年には、もう辞めてしまうのだ。
ただ俺が気になるのはその理由だ。
信長が右大臣を辞任する理由は後世でも不明とされていて、さまざまな憶測や推測がされているのだが。
「辞める」
信長は、低めの声で、
「余はもう、右大臣となった。一度なれば充分だ。これで充分に権威はついた。あとは要らぬ」
俺は、心の中でおやっと思った。
かつての信長は、足利体制を支えたいと考えており、そして、その足利の上にいる朝廷についても充分に尊重していた。しかし今日の信長は、朝廷の権威を要らぬと言い切った。
「無論、主上を軽んじるわけではない」
俺の内心を見抜いたのか、信長は多少、補足するように続ける。
「主上を守護し、主上の御為になることこそ、余の本意である。それは変わらない。しかし、天下人として生きる織田信長に、朝廷のご加護とお許しは、もはや不要となってきた、ということだ」
「それは……」
確かにそういう一面はある。
織田信長の権力は、もはや足利幕府はもちろん、朝廷の後ろ盾がなくとも強固そのものだ。
数多くの敵を打ち倒し泰平を築き、領国は道を作り橋を作り商業も活発、善政そのもの。信長が右大臣であろうがなかろうが、家臣団は忠誠を尽くすだろうし、民も信長の政治を支持するだろう。
そんな信長にとって、右大臣の地位など、多少の箔をつける程度でしかないのだ。
「上様はこの日ノ本に安寧と発展をもたらすお方でございます」
そのとき明智光秀が口を開いた。
「足利とも帝とも違う、まったく別格の存在として、これからも日ノ本を導いていってもらわねばなりませぬ。そのためには右大臣という地位は、縛りでしかございませぬ。これからは、日ノ本ただひとりの上様として、存分に思うさまのまつりごとをしていただきたいと思いまする」
「喋りすぎだ、明智」
信長は、やんわりと明智光秀をたしなめたが、機嫌は良さそうだった。
「そういうことだ、山田。余は帝を敬っておるが、それとはまた別に、この信長自身の意思として天下布武を進める。より道を作り橋を築き、安寧をもたらし商いを進化させる。民草誰もが明るく生きていく世を作り上げるのだ」
「お見事です。左様です、上様。左様なさいませ」
明智光秀ですらも、楽しそうに追従の言葉を発し、平伏した。
「古き世を打ち倒し、世に静謐をもたらすことこそ、上様のなさるまつりごとでございます」
平伏したまま、明智光秀は淡々とした口調で、なお信長を賞賛する。
場の空気に従い、俺も思わず平伏したが――
信長と光秀。
実にウマが合うところを見せている。
のちのち本能寺の変が起きるなんて、信じられない空気だ。
元より、明智光秀と信長は、ウマが合うところも多かったが、今日は特にそう感じる。
この状況から本能寺は、果たして、起こりえるのだろうか……?
「上様。そろそろ次の方が」
小姓が恐る恐るといった様子で発言した。
次の客が来る時間帯なのか。信長は「うむ」と言って、
「山田、明智。下がってよい。明智、右大臣辞任の件を進めたこと、大義であった。……そうだ、山田。例の鉄船の件、明智にもようと話しておけ。明智も無類の鉄砲上手。良き知恵を出してくれよう」
「ははっ。……それでは」
「失礼いたしまする」
俺と明智光秀は、揃って信長の前から退出した。
その後、建設中の安土城の中を歩きながら、――光秀は無言。どうも、こう、……昔からそうなんだが、いや、昔よりはマシになったんだが、俺は明智光秀があと一歩、苦手なんだ。何故だろうな。こればかりは理由が分からない。生理的なものか?
とはいえ、苦手だからといって仕事の話をしないわけにもいかず、
「明智どの。実は」
と言って、俺は鉄甲船の話をした。
「鉄の船、でござるか」
明智光秀は、少し驚いたように俺の顔を見つめると、
「左様なものができるのでござるか。……いや、しかし、理にはかなっておるやも。……それにしても、山田殿。その智恵も、山田どのから出てきたものでござるか」
「無論です」
「そうですか……」
明智光秀は、ただじっと俺の顔を見つめる。
この顔がやはり苦手なのだ。俺のすべてを覗き込もうとする瞳が。
昔から……。
明智光秀は、俺のことを好きなのか嫌いなのか。
本当になにを考えているのか、まったく読めない……!
その後、明智光秀と、鉄砲を軍船に取りつける手段について二、三、話し合いをした。
さすがに明智光秀は戦上手だ。船のどこに鉄砲を付ければ、敵を多く撃ち抜くことができるかを的確に助言してくれた。さらに、
「鉄砲がご入り用ならば、調達致しましょう。ただの火縄銃ゆえ、山田殿のお役に立てるかは分かりませぬが」
「いえ、銃はいくらあっても良いものです。いただきます」
こうして明智光秀は、鉄砲50を津島に送ってくれた。
明智光秀は丹波攻めで忙しい。伊勢には来てくれず、丹波に戻ってしまった。
とはいえ、明智光秀と一緒に行くより、仲間とだけ動いた方が俺も気楽だ。
俺は山田屋敷に戻ると、伊与、カンナ、五右衛門、次郎兵衛といった面々を連れて伊勢に向かい、九鬼嘉隆の船作りに参加した。
だから、この年の2月に、播磨国で秀吉が別所氏と対立してしまったときも、力にはなれなかった。
「弥五郎。播磨の小一郎から文が届いとるよ」
伊勢で鉄甲船を作っていた俺のところへ、羽柴小一郎から手紙が来たのだ。
俺はカンナから手紙を受け取ると、すぐに目を通した。
小一郎曰く。
播磨国の別所氏は、秀吉の傘下にいたものの、先日、軍議において対立してしまった。
別所氏の現在の当主は長治だが、これはまだ若く実権がない。そこで長治の叔父である別所賀相が後見役となっていたが、この賀相が秀吉と対立した、というのだ。
別所賀相とその家臣は、秀吉もいた軍議の場で、無駄話を延々と続け、さらに、自分たち別所氏が、守護大名の名家、赤松家の庶流であることを告げたのだという。
「すなわち家柄だけでいえば、織田家よりも上なのでおじゃる」
その言葉に、秀吉はカッとなった。
「聞き捨てならぬ。その言葉、上様を愚弄されたも同然じゃ! ――家柄で敵が倒せるか、家柄でまつりごとが成るか、家柄で矢玉が避けてくれるのか。黙って聞いておれば先ほどから、つまらん繰り言ばかりグダグダと並べ立ておって!」
「つ、つまらん繰り言とは、なにごと……」
「つまらんをつまらんと言うた! もう良い、汝らにはなにも期待せぬ。汝らは黙って、この羽柴筑前の下知に従っておればよいのじゃ!」
この言葉で、秀吉と別所氏の決別は決定的となった。
別所賀相は顔を真っ赤にし、家臣団を引き連れて軍議の場から出ていってしまったという。
――兄者も短気が過ぎる。はいはいと笑ってこらえておけばよいものを。
と、小一郎は手紙の中で愚痴っているが、……俺には秀吉の気持ちが分かる。
先日、織田於次丸が養子になるといったときでも、家柄に対して複雑な感情を抱いていた秀吉だった。そんないまの秀吉に、家柄や名門の話はタブーだったのだ。少し前の秀吉ならば、小一郎が言うように笑って流していたかもしれないが……。時期が悪かった。
「とはいえ、これは避けられなかった未来だな」
家柄嫌いの秀吉と、家柄を誇る別所氏。
俺が多少動き回ったところで、最後は決裂していたに違いないのだ。
足利義昭相手でさえ、怒り狂っていた秀吉ではないか。
俺はふと、先日、明智光秀が言い放った言葉を思い返した。
――古き世を打ち倒し、世に静謐をもたらすことこそ、上様のなさるまつりごとでございます。
「古き世。名門。家柄。……打ち倒される。……信長、秀吉、光秀の手によって……。その果てにあるのか? ……本能寺……」
「弥五郎、なにをブツブツ言いよるん?」
カンナがキョトン顔である。
俺は、なんでもない、と言って、
「安土のあかりに使者を飛ばしてくれ。藤吉郎がいる姫路城に、兵糧を送るように、と。世がどう転んだって、食べ物は要るからな」
そして秀吉と別所氏の対立から1ヶ月後。
天正6年(1578年)3月、秀吉は別所氏の本拠である三木城を包囲。攻撃を開始した。
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