第五部 第十六話 動かぬ竹中半兵衛

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第五部 第十六話 動かぬ竹中半兵衛

 天正6年(1578年)10月30日。  俺は伊与たちを引き連れて、播磨国の姫路城へと向かった。  反乱を起こした荒木村重に対処するため。  そして荒木村重のいる有岡城に入ったままの小寺官兵衛をなんとかするためである。  姫路城はもともと小寺官兵衛の城だった。  だが、秀吉が播磨国にやってきたときに、なんと官兵衛が城ごと秀吉に渡している。  これ以降、秀吉は官兵衛をおおいに信頼した。  そしてその後、羽柴軍、織田軍の播磨における拠点は姫路城となったわけだが……。  その姫路に向かって馬を飛ばす俺の心は暗かった。  小寺官兵衛。あれほど、独断で敵の説得に向かうなと言ったのに。  それなのに小寺官兵衛、のちの黒田官兵衛は有岡城に入って! 俺の言葉が信用できなかったのか……!?  伊勢から播磨までは、遠い。  船を使うべきか迷ったが、いま織田の水軍は毛利水軍との決戦に備えて、小舟一艘さえ俺のために使うゆとりがなかった。  石山本願寺に味方する毛利水軍は、常に瀬戸内の海に浮かんでいる。  かつて織田の水軍と戦った、あの毛利水軍だ。 「しかしその毛利水軍も、荒木村重が毛利家についたとあれば、また余計な動きを始めるに違いない」  道中、俺は馬に乗りながら、叫ぶように独りごちた。 「毛利水軍は恐らく、また石山のほうに寄せてくるだろうぜ」 「例の鉄板船は、どうするつもりだ。俊明」  伊与が、やはり馬上で話しかけてきた。  舌も噛まずに叫び飛ばすあたりは、さすが俺の女房だと言える。 「鉄甲船なら九分九厘まで完成している。久助(滝川一益)だって伊勢にいるからな。俺があそこに残る意味はもうない」  横12メートル。  縦22メートル。  この鉄板を複数枚、大型の船に貼り付けたのだ。 「そもそもなんだって、鉄が海に浮かぶんですかね、アニキ? あっしにゃそのへんの理屈が、どうも分かりませんで」 「鉄といっても、薄い鉄の板を木造船に貼り付けているだけだからな。鉄そのものの船ってわけじゃない」 「ははあ……そうなんスね。でも木の船の上に鉄がのっかったら、沈む気がしますけれど、沈まないんスね」 「船はあれで重さに耐えられるようにできている。大量の積み荷を載せて海の上を進んでいるだろう。木造船といっても重みには強いのさ。ちゃんと造りさえすればな」 「そうなんスね。ま、アニキが言うなら間違いないんでしょうが」  次郎兵衛も、馬に乗ったまま喋ることができるのは、やはり尋常な男ではない。  まあ、俺もそうかもしれんが。……馬に、慣れてしまったな。  俺たちは伊勢から、1日で尾張まで戻り、そのまま川を上るための船に乗ると、船内で睡眠をとった。……付け加えておけば、この船は織田水軍の船ではなく、尾張と美濃を行き来する商人の船で、いわば民間船だ。  船は夜通し川を上って美濃までたどり着いた。  俺たちはさらに馬に乗り、西美濃から関ヶ原を駆け抜けて長浜へ。  そして琵琶湖の船に飛び乗って、また船内で睡眠。  翌日、やっと京の都までたどり着いた。  さすがに宿に上がり、休憩と食事を摂っていると、 「山田どの」  と言って話しかけてきたのは、織田家の侍、丹羽兵蔵さんであった。 「兵蔵さん。これはお久しい……!」  かつて、信長が足利義輝に会うために上洛したとき、俺といっしょに旅をした人物だ。  いまは信長周囲の警護や世話をする役目をしているため、俺とは顔を合わせることがほとんどなくなっていたのだが、 「お懐かしゅうござる。上様のお食事を用意するために、拙者、この宿に参ったのでござるが」 「上様の? 上様は都にいらっしゃるのか」 「ふむ。例の荒木摂津と毛利のことで」 「やはり……」  兵蔵さん曰く。  荒木村重の謀反を聞いた信長は、最初、敵が流したニセ情報だろうと信じていなかったが、本当だと分かると、荒木村重を懐柔するために使者を次々と放った。  佐久間信盛や明智光秀、さらに播磨の秀吉まで動かして、反乱をやめるように説得した。しかし荒木は応じなかった。彼はあくまでも、織田と戦い、毛利、そして毛利家が現在庇護している足利義昭のために忠誠を尽くすといったのだ。 「荒木摂津が、なぜこのような暴挙に出たのか、上様は分からぬと申しておりました。むろん拙者も分かりませぬ」 「…………」 「さらに荒木に呼応して、毛利水軍が瀬戸内海から出動し、大坂のほうへと押し寄せてきている模様」 「やはり、そうなりますか」 「これを倒すために、上様は伊勢の滝川どのと九鬼どのに使者を飛ばして、例の鉄船を動かし、毛利を打ち倒そうとしております」 「そうですか。その使者は俺と行き違いになったな……」  俺は天を仰いだ。  考える。……例の鉄甲船は完璧に近い完成度だった。  あれを使えば、毛利には勝てるだろう。滝川一益もいるんだ。あっちは任せても大丈夫だろうが――いや、しかし。 「次郎兵衛」 「はいッス」 「聞いての通りだ。間もなく織田と毛利の水軍がぶつかる。お前はいまから大坂へ向かって、久助と合流し、助けてやれ」 「はあ、滝川のアニキだったら、あっしの助けなんざなくても平気だと思いやすがね」 「それでもだ。……それに、神砲衆の呼吸を知っているお前なら、鉄甲船についている鉄砲の使い方も分かるはずだ。頼む」 「おっと、承知。そうまで言われちゃ、次郎兵衛も励みやすぜ。そいじゃ、早速」  次郎兵衛はすぐに宿を飛び出した。  よし、これで毛利水軍はどうにかなるだろう。  次は……。 「山田殿。上様はあまりの事態に、毛利と本願寺――両勢力と和議を結ぶつもりでござるぞ」 「和睦を……」 「山田殿はどう思われるか? 拙者、荒木摂津の謀反があったとはいえ、ここで弱気になるのは良くないと思うのだが」 「それについては心配はいらないでしょう。すべて賢明なる上様のご判断に任せるがよろしいかと」  と、俺が言ったのには理由がある。  確かにこの時期の信長は少し弱気になり、朝廷まで動かして毛利家、および石山本願寺と和睦をしようとする。  だがこれより以後、毛利水軍の壊滅と、さらに荒木村重の仲間であった高山右近や中川瀬兵衛といった面々が織田家に戻ってきたことにより、強気を取り戻し、和睦の話は無しになるのだ。  ……そうだ。  織田家全体についてはそう心配はいらないのだ。  問題は、小寺官兵衛……。 「兵蔵さん。播磨の小寺官兵衛について、なにか聞いておりますか」 「小寺? ……さて、その者のこと、拙者はよう知りませぬな。相済みませぬ」  兵蔵さんは謝ったが、これはまあ無理もない。  官兵衛の存在は、この時点では播磨の地侍に過ぎない。信長の警護役である兵蔵さんにまで名前が伝わっているはずもない。 「いや、こちらこそすみません。忘れてください。……やはり官兵衛のことは、俺がじきじきに様子を見にいくしかなさそうだな」 「小寺官兵衛が、ずいぶん心配なんだな、俊明は」  伊与が言ったが、そりゃあ心配にもなる。  のちの黒田官兵衛がここで万が一にでも死んでしまえば、今後の歴史の展開がまた変わってくるからな。 「よし、休息はもう充分だ。播磨に行こう」 「上様に会うていかれぬのか?」  兵蔵さんは、ちょっと意外そうな顔をしたが、 「上様も、お忙しいでしょうから」  俺はそう言った。  実際、いまの信長に会ってもなにもない。  ただ、連絡役は必要だと思った俺は、 「五右衛門、しばらく都に残ってくれ。なにかあったら、すぐに播磨の姫路、伊勢のカンナ、大坂に向かった次郎兵衛に使者を飛ばしてくれ」 「分かったよ。くれぐれも無理をするんじゃないよ」 「よし、じゃあ俺と伊与は播磨に向かう!」  三日後。  俺と伊与は播磨国の姫路城、その中の一室にいた。 「官兵衛のことなら、わしが知りたいくらいじゃ!」  秀吉は、カリカリしながら俺と伊与を出迎えてくれた。  かたわらには、青白い顔の竹中半兵衛を従えている。 「荒木摂津が謀反をした。そこで官兵衛、自分は荒木と懇意だからとひとりで説得に向かいおった。……しばらく、城から出てこんかった……」 「そのまま捕まったのか」 「いや……」  秀吉は、腕を組むと、 「その後、わしも有岡城に向かったのよ。明智十兵衛らと一緒にな。そして荒木を説得したが、やつはまったく、話を聞こうともせん。なぜ謀反を起こしたのかさえ、教えてくれなんだ。……そして官兵衛はそのとき、わしと一緒に一度は姫路に帰ったのだ。じゃが……」 「じゃが?」 「その後、やつはまた有岡に向かったのだ! そしてまた出てこなくなった。なにを考えておるのか、まるで分からん!」 「小寺孫四郎様のご命令でしょうな」  そのとき半兵衛がポツリと言った。 「小寺孫四郎様、というのは?」  伊与が尋ねると、半兵衛は一度、大きく咳き込んでから、 「官兵衛殿の(あるじ)でござるよ。  そもそも播磨には、小寺家という大名家がござってな。官兵衛殿はその家の家来であた。  藤吉郎殿が播磨に来られてからは、官兵衛殿、もはや羽柴か織田の重臣のごとく振る舞っておりましたが、本来はその播磨の大名、小寺孫四郎様のご家来でござる」 「ご教示、ありがとうございます。知らなかった。小寺孫四郎、なんて大名がいたのか」  伊与はかなり無礼、かつ無知なことを口にしているが……。  実際、この織田と毛利の二大勢力が激突し、尼子勝久が討ち死にし、荒木村重が反乱し、小寺官兵衛が縦横無尽に駆けずり回っている現在の播磨情勢において、小寺孫四郎の存在感は恐ろしく小さい。  常に播磨にいるならばともかく、いなかったら、その名前を知らなくても無理はない。  神砲衆も伊与自身も、播磨情勢にはそう深く入り込んでいなかったからな……。 「ともあれ、その小寺孫四郎様でござる。孫四郎様は小寺官兵衛殿に、有岡城に行って、荒木摂津を説得しろと命令したのでござろう。そうすれば官兵衛殿といえど、その命令には逆らえませぬよ」 「そうか。……そうだな……」  いくら俺が忠告していたとしても、主君、小寺孫四郎から命令が来れば、官兵衛も動くしかないよな。  伊与と同じだ。俺も官兵衛の主君のことを忘れていた。  まったく、手抜かりとしか言いようがないが……。 「まあそう暗い顔をするな、弥五郎。汝のおかげで羽柴軍は助かっとるんじゃ。汝があらかじめ、ものすごい量の兵糧や武器、弾薬を送ってくれていたろうが。おかげで羽柴軍はまだ何年も戦える。別所が裏切ろうが、荒木が寝返ろうが、のう。ありがたい限りよ」 「ああ……いや、まあそれは、大したことは……」  秀吉に褒められて、俺は微笑を浮かべる。  半兵衛がひとつ、大きな咳をした。  秀吉は腕を組んで、 「ともあれ、ひとつひとつ対処していくしかあるまい。三木城の別所は兵糧攻め。上月城の毛利に対しては、小六兄ィが手勢を率いて見張っておる。荒木摂津の謀反については、こりゃ上様になんとかしてもらうより他はあるまい。問題は有岡に行ったきりの官兵衛じゃが……。どうなっておるのか。弥五郎、五右衛門あたりを有岡に忍ばせて、官兵衛と話ができんもんかの?」 「しくじった。五右衛門はいま都にいるんだ。文を送って、呼び出すか?」 「ふむ。そうしてくれると助かるが」 「ならば私が都に戻ろう。五右衛門と交代する」  と、伊与が申し出てくれたのだが、そのときである。 「兄者。吉報と凶報じゃ!」  羽柴小一郎が、室内に入ってきた。 「あっ、山田さん。奥さんも。姫路まで来ていたのですか。伊勢にいるとばかり」 「弥五郎と伊与はこちらに駆けつけてくれたのよ。……小一郎、知らせはなんじゃ? ここにいるのは皆、知らせても問題のない者ばかりよ」  室内にいるのは、俺、秀吉、伊与、半兵衛の4人である。  小一郎はうなずいて、部屋の中央までやってくると、 「まずは吉報。滝川さまと九鬼さまの鉄甲船が毛利水軍を倒しました」 「おお……!」  俺は秀吉と目を合わせて笑った。  伊与と半兵衛ですら、目を細めた。 「厄介な毛利水軍がこれでいなくなったか。それにこれで、水路を使って羽柴軍の兵糧輸送もなるというもの」 「逆に石山本願寺は兵糧を手に入れるのが困難となったわい。はっはっは、こりゃ確かに吉報よ」  俺と秀吉がふたりで笑ったが、伊与は笑わず、 「それで凶報は?」 「はあ。それが」  小一郎は暗い顔をして、 「上様からじきじきのご命令です。小寺官兵衛は織田を裏切り、荒木の家臣となった。……そこで官兵衛から預かっている人質を……つまり、官兵衛の長男を殺せ、と……」 「「…………」」  俺と秀吉。  今度は暗い顔をした。  官兵衛は、確かに、織田の味方となるとき、人質として自分の長男を羽柴家に預けている。  小寺家の松寿丸(しょうじゅまる)。  のちの筑前黒田藩初代藩主、黒田長政だ。 「待て、小一郎。官兵衛が裏切ったと決まったわけではないぞ!」 「私に言われても困るよ、兄者。これは上様の命令なんじゃから」 「う、うむ……」  秀吉は、先ほどの笑顔もどこへやら。  深刻極まる表情を見せる。……無理もない。  官兵衛が裏切ったと決まったわけでもないのに、人質を殺せとは。  信長に少し、焦りが見える命令だな。  次々と敵対者が現れたので、ここでひとつ見せしめを作ろうとでもいうのか。  だが……。  この命令は、竹中半兵衛が解決するのだ。  半兵衛は黒田長政を自分の城にかくまい、逆に、病死した別人の子供の首を信長に送るのだ。  こうして黒田長政は助かるのだ。  歴史的には、そういう流れのはずだが……。 「……あるいは、やむをえないかもしれませんな」  半兵衛は、冷たい顔をして言った。 「半兵衛、本気で言っておるのか?」 「敵城に入ったまま、なんの連絡もよこさぬ官兵衛殿。裏切ったと思われても仕方が無い……。むしろここで、人質の首をはねることで、織田の敵対者に織田の覚悟を見せる良い機会かもしれませぬ」  ち、ちょっと待て。  と、俺は言いたくなった。  本来、黒田長政を助けるはずの半兵衛が、処刑に賛成、だと?  またなにか妙な流れになってきた。どうするんだ、これは……。 「……ああ、そうそう、忘れておりました。山田さん」  小一郎が、ふいに言った。 「ん……?」 「数日前、浪人風の男が姫路城の門前にやってきて、山田弥五郎どのが現れたら、姫路城の裏手にある古寺まで来てくれと言ったそうですよ。十日は待つ、と言い残したそうで」 「なんだって? それを早く言ってくれ。誰なんだ?」 「さあ、それは分かりません。私が応対したわけでないので。ただ一言、わの字が来た、とだけ伝えてくれと」 「わの字……」  俺はすぐに閃いた。  和田惟政!  彼だ。  和田さんが、俺に会いに来たのだ!  足利義昭のところにいるはずの彼が、なぜ、ここに……!?
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