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むっとする熱気のせいで、余計に臭いを感じる公衆トイレに入り、個室に駆け込み、カギかける。
「あーちゃん、ここで待ってるね」
戸の前からきいちゃんが声をかける。
(どうしよう、どうしよう。どうやって逃げよう)
手洗い場の、蛇口の一つがゆるんでいるのだろう。水滴の落ちる音が聞こえる。恐怖を紛らわすため、その音を数える。
ピチョン。ピチョン。ピチョン。
三滴目を数えたすぐ後、急にノックされた。
「ねえ、まだ? 早く!」
ノックにかき消され、水の音はもう聞こえない。
「ねえ、早くしなよ、ねえ、ねえ!」
ドンドンとノックされるたびに戸が揺れる。
「ねえ、ねえ、ねえ、ねえ、ねえ!」
叫びすぎているのか、きいちゃんの声は「ねえ」を繰り返すたび声がしわがれていく。
「ねえ、ねえ、ねえ!」
両手を使ったとしても、一人の人間がこれだけの速さと強さで戸を連打できるのかと思うほど、ノックは激しくなった。
本当に、外にいるのはきいちゃんなの? 本当に、きいちゃん一人しかいないの?
「ちょ、ちょっと、ちょっと待って……」
怖くなって、私はポケットから携帯を取り出した。
震える手で、何度かミスしながら、何とか自宅の短縮番号にかける。
ドアが揺れる中、呼び出しの音が聞こえてくる。そして相手先に繋がったプッという小さなノイズ。
そしてその瞬間――ノックが止んだ。
『はい?』
携帯のむこうから、母の声が聞こえてくる。
そして、手洗い場のピチョンという音。
私は、何があったのか説明もできず、ただ「怖い」と泣き出してしまった。
何か、ただならない物を感じたのだろう。母は「どこにいるの?」と聞いてきた。「○○公園」と告げる。
「迎えに行くから、そこで待っていなさい」
母が迎えに来たとき、きいちゃんはどこにもいなかったという。
家に着いて、何があったか聞かれた私は、とっさに男の人に追い掛けられ、トイレに逃げ込んだと嘘をついた。別の世界に行こうとした、なんて言ったら、また母に心配をかけてしまうと思ったからだ。
次の日、きいちゃんは普段どおりに学校に来た。昨日のことをこっちから話す勇気はなかったし、きいちゃんも何も言わなかった。いつもと変わらない様子で、他愛のないことを話かけてきただけだ。私は内心怖くて怖くて、適当な返事を返していたら、「もういい!」とほかの友達の所にいってしまった。
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