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その男性は寝ていなかった。通常こういう場合はたいてい居眠りを続けているパターンが多い。起きていれば、自分以外の乗客がいない事に気付いて降りる人がほとんどだ。たまにそれにも気づかずそのまま座っている人もいるが、その場合はたいてい携帯や音楽に夢中になっているパターンだ。
だが、その男性はどちらでもなかった。
背筋をすっと伸ばし、すーっと前の方を見つめている。携帯も見ず、耳にイヤホンも差し込まれていない。
「お客さん、降りてください。このまま車庫入りますんで」
気味悪く思いながら、声をかけた。
男がゆっくりとこちらを振り向いた。
後悔。
瞬時に頭をよぎった感情。
ああ、馬鹿正直に仕事だなんて使命で動くんじゃなかった。
これは、関わってはいけない存在だ。
能面を張り付けたような無表情と、深淵のような黒目がこちらをじっと見つめた。
「ここは、僕の席です」
気づけば俺は身をひるがえし全力で逃げ出していた。
俺はその日初めて、職務を放棄した。
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