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部屋の外で軽い足音がすることにも慣れてきた。
夕食が終わり俺が片付け、彼女が風呂へ入る。その時におやすみの挨拶は済ませておくのが自然な流れとなっていた。
皿を洗い終えた俺は酒やらつまみやらを抱えて自室へと入り、彼女も風呂が終われば自室へと向かっていつ就寝しているかなどは全く知らない。
冷蔵庫に飲み物や菓子を取りに行った時顔を合せることはあるけど、軽い会話をして改めておやすみを言うくらいだ。
俺が先に風呂へ入ることが多いのは、なんつーか、ほら。
女性が先に入ると色々気を遣わせてしまうかもしれないし、とか言いつつ俺も出るとき湯船を網で救う程度に気は使っているけど、何より湯あがりの彼女を直視したくないというのが本音だった。
一緒に暮らしはじめた頃こそ何度か鉢合わせもした。
……やっぱ、ダメだった。
自制心という名のプライドを総動員しても、湯あがりだけは無理だと思う。僧侶でも無理なんじゃないかと思う。俺とは違うシャンプーなどの香りに加え、彼女自身がいい香りを纏わせているので、無理だ。
新しい部屋が見つかるまでという期間限定の同居生活が真冬で助かった。
もしも夏だったら、先に帰宅している彼女がシャワーを浴びたあと「おかえりなさい」とか言って俺を出迎えてくれるようなことが万が一にもあったら、俺は倒れる。いろんな意味で。
今だって、残業で遅い帰りになった時自室に居たのにわざわざドアをあけて「おかえりなさい」と声をかけてくれる彼女を前に抱きしめたい衝動でいっぱいになるのに。
「……よくやってるよなぁ、俺」
好きな女がひとつ屋根の下に居て、手を繋ぐ以上の事をすることのないアラサー男子。
なんてことはない。
嫌われてしまうのが怖いだけの、臆病なだけの自分を内心嗤いつつ、俺はあの夜の彼女の涙を未だ忘れられずにいた。
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