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「ご機嫌ですね」
仕事上がりの彼女を迎えに来た今、顔を合わせた瞬間に彼女が言った。
彼女の前では懸命にクールを装っているつもりなのにいつもこうだ。同居を言い出した時がアレすぎたけど、それでもクールを努めているというのに。
いつものように少しの距離をあけながら並んで歩き出す。いつものように手に触れそうになって――やめた。
(今日はちょっと無理だ)
正直千歳のことが頭の半分以上を占めている。
この状態では彼女の手を握りたくない。説明できないけど千歳にもなんかダメだし、彼女にもなんかダメすぎる。
行き場を失った左手を誤魔化すように後頭部に置きながら会話を続けた。
「わかりますか? 機嫌が良いとか」
「……何となく、ですけど」
微笑みながら返してくれる彼女の声がほんの少しだけ陰った。
すぐに立て直したが、俺には分かった。
俺が彼女の手に手を伸ばしかけたことも、そしてやめたことにも気付いたんだ。だから少し、本当に少しだけだけど、声が沈んだ。
(寂しい……とか…思ってくれてんのかな)
勝手だと思わないことはない。
だって、指輪をしてるってことは彼女は既婚者だ。
どんな理由があるとはいえ男の元へ身を置いて、手を繋がない事を寂しがるだなんて勝手だと思わない方がおかしい。そう思うのが普通だろう。
それなのに。
(………重症だ)
「? どうしたんです?」
「いや……大丈夫です、帰りましょ。マキさん」
「はい」
大通りにまだ出ていなくてよかった。
いくら手で口元を隠したからって、嬉しさのあまり崩れてしまった顔を彼女に見られなくて済んだから。
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