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『……消えてしまうかと思ったんですよ』
『え?』
『あの子のことです』
『……どういう意味ですか?』
マスターと視線が交わる。
『……この店のすぐ近くにいたんです。朝からずっと。荷物も持たずに』
『え』
『顔色は真っ白で表情に覇気もなく……放っておけなくて、店仕舞いのあと外を見遣ってもまだいるもんだから、入るように言ったんです。断固として断られたんですけどね。目もぼんやりしていたのに、ご迷惑はかけられませんと何度も』
想像できてしまってつい笑った。
すみませんと頭をさげると、いいんですよと返したマスターは懐かしそうに目を細めて話を続けた。
『何とか入ってもらったんですが、いかにも訳ありという風で。話は聞きませんでしたが、女の子がひとりで家もなしにうろついているのは危険ですし』
『それで、雇ったんですか?』
『そういうことです』
彼女を信頼してのことだろうが、マスターもなかなか大胆な事をする。もしも彼女が詐欺師や泥棒だったらどうするつもりだったんだろう。
そう訊ねたら、マスターは何てことない顔をして答えてくれた。
『そしたら自分の見る目のなさを嘆くのみです』
(デッカイよなぁ)
マスターは感心のあまり言葉を失った俺の肩を優しく叩き、目尻に皺を刻んだ。
『真己くんも彼女も、とてもいい子ですよ。人を見る目に自信が持てました』
『……褒めてるんです、よね』
『勿論』
『なんかすごく子ども扱いされてる気がするんですけど。俺もう30になるんですよ』
『まだまだ子どもですよ』
『そりゃ……マスターから見たら……』
『ですからね』
俺の声を珍しく遮ったマスターは、夜が開けるまで雨が降っていたとは思えないほどの晴天に手を伸ばす。
そしてその手を俺の頭へポンと置いた。
マスターの背は俺より低い。でも、彼女よりは高い。
微妙に見下ろすだけのマスターから急に頭を撫でられ戸惑う俺に、優しく笑って言った。
『ですからね。迷ったり間違えたりしていいんです』
『……え』
『まだまだ、間違えても迷ってもいいんですよ。悩んで迷って間違えてもいい。花が咲いたり穀物に実をつけるためには雨が必要なように……』
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