純愛

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「早くしろよ おまえ、トロいから」 わざとトロくしているとは考えないのだろうか。 瑞樹が嫌味を口にして、バスルームから出て行く。 私の口からは歯ブラシが動く、あの独特の音が聞こえる。 私の美男の父。 今は亡きその父は葬儀屋の仕事をしていた。 父と母について知っているのはそれぐらい。 あとはお酒と薬が趣味ってだけの平凡な夫婦だ。 そこによく現れたのが、藤宮仁だった。 初めて見た瞬間に私は藤宮さんを女性だと思ってしまった。 真っ黒に艶やかな黒髪は腰まであり、つり上がったアーモンドの形をした瞳は無機質な物。 冷たいその瞳が子供ながらに怖くて仕方がなかった。 それでも逃げなかったのは、いや……逃げられなかったのは、彼のふわりと笑った顔に魅了されたからだ。 藤宮仁が持ってきた、苺。 それは私に訪れた、甘酸っぱい初恋の思い出だ。 「……はー、眠い」 歯磨きを終わらせ、顔を洗ったその姿でバスルームを出る。 次に向かう場所はウォークインクローゼット。 衣装ルームも広々としていて、化粧台も完備されている。 化粧が服に着かない程度の広さは完備されている優れもの。 「……なにしてるの?」 「あー……」 ウォークインクローゼットの中には巨大な鏡があり、その前で瑞樹が困惑していた。 綺麗な男性がスーツを着るとさらに見栄えが良くなる。 スーツマジックは喪服でも成立するらしい。 「貸して」 瑞樹はネクタイをうまく結べない。 兄妹なりのチームプレーでそこをどうにかしているのが現状。 初めて、藤宮さんのそういうシーンを見てしまったのは遥か昔。 ネクタイを緩め、白くなった女性を触るその姿はゾッとする程美しかった。 全てを脱ぎ捨て女性に跨る姿。 重力に負けた髪の毛が女性の体を覆う。 真っ白な女性と同じような真っ白な肌を持つその藤宮さん。 私が藤宮さんを男性だと理解したのは、膨らんでいない胸が見えたから。 私に向けたふわりと笑った表情など一切感じさせない冷めた顔で、女性を組み敷く。 その口元には煙草が咥えられていた。 裸の女性と裸の男性。 あとは…… 「ありがとう、ひかり」 「あー、これが藤宮さんだったらどれだけいいか……」 「久しく感謝してんだから、うるせぇこと言うんじゃねぇよ」
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