純愛

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藤宮さんがいなくなった部屋。 藤宮さんの声が聞こえなくなった部屋。 そこはまるで虚無の世界だった。 どこまでも無意味に感じる、ただのだだっ広い部屋。 そこに香る、井川さんのムスクの匂い。 それが私の体を現実に引き戻す。 いつだってその香りに腹が立つ。 私を抱いたのが藤宮さんでは無くて、井川さんだという真実を私に知らしめる。 「……今、何時?」 40階建マンションの最上階。 私に空中権があるのだと勘違いしてしまう程に見晴らしのいい物件。 たとえ、お風呂上がりに裸で牛乳を飲もうが、窓際で身体を繋げようが、誰にも文句は言われない。 窓から差し込む太陽にようやく眠気から脱した気分。 欠伸を噛み締めながら、ベッドの下を覗いてみる。 そこに昨日脱ぎ捨てた服は無かった。 かわりにベッドの上に綺麗に畳まれたバスローブ。 ……オヤジか。 とも思ってしまうその紳士的な対応。 「51はオヤジか……」 私は小さく呟き、裸にそれを纏った。 藤宮さんが用意してくれたバスローブだなんて知ったら、井川さんはどう思うのだろうか。 ……多分、怒りもしない。 “年寄りをいじめるな”って顔色ひとつ変えずに私を抱き締めてくれるだろう。 巷で言われるバージンヘアの黒髪。 一度も手を加えていない髪の毛は井川さんからも好評。 それをするりとかきあげてから、寝室を後にする。 井川秀彰(イガワヒデアキ)。 9月生まれの51歳。 身長、175cm。 結婚歴、離婚歴共に1回。 現在パートナーなし。 職業、声優。 結論から言うと、井川秀彰と身体を繋げる理由は【藤宮仁】という人間の声質を真似出来るから。 ただそれだけ。 それ以外に理由はない。
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