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プロローグ
8月下旬、猛暑の真っ只中である。窓という窓を締め切り、更に暗幕によって完全に外部と遮断された体育館は、夜10時をまわってもなお、昼間の熱気で空気を膨らませていた。
その膨らんだ空気に濃く混ざりあう死臭──夥しい数の離断遺体が、真っ白な棺に納められ、館内に整然と並んでいる。その数は百を越える。
音はない。否、まだ数人の医師や警察官が遺体の確認作業を行っており、外からは車の行き交う音も聞こえてはくるのだが、耳に真綿でも詰められているかのように、それらの音をひどく遠いものにしていた。
全く現実味がなかった。今この場にじっと佇んでいるのが自分かどうかさえも定かでない、あやふやな感覚だった。
先程、父と対面した。
父は、真っ白な棺のなかに寝かされていた。
全身に包帯が巻かれていた。包帯の隙間から、爛れた口もとと顎、破れた皮膚に覆われた胸、そして堅く握り締められた左手だけが見えた。その部分しか見つかっていないと説明を受けた。つんと尖った意思の強そうな顎は、紛れもなく父のものだった。
ネクタイをした警察官が二人、足音を忍ばせて近付いてきた。何か言葉を発しているようだが、内容がまるで理解できない。何と言っているのか解らない。
「………お願いしたいのですが」
ふとそこで警察官が言葉を切ったので、相馬千鶴ははっと我に返った。この警察官は何を「お願いしたい」と言ったのだろう?
「嫌だ」
確かめるより先に、隣に立つ弟の声が小さく、だが毅然と響いた。
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