57人が本棚に入れています
本棚に追加
ふと、千鶴の脳裏に映像がよぎった。
あの事故の日の朝──8月12日。
学校は夏休みで、千鶴も修有も家にいた。
朝から蒸し暑い日だった。
窓を開け放ったリビングには珍しく父がいた。ソファに座って新聞を読んでいた。既にスーツを着ている。おそらくこれから仕事なのだろう。航空業界はサービス業だ。世間一般はお盆休みだが、盆も暮れも正月も関係ない。
修有はキッチンのテーブルで漫画を読んでいた。母は食器を洗っている。
日頃からあまり会話はなかった。特に、不在であることが多い父とは、滅多に話さなかった。話すことがなかった。
だから、父の言葉に、みんな驚いたのだ。
「来月、ちょっと休みを取ったから、みんなで海にでも行くか」
新聞に目を落としたまま、まるで独り言のようにそう言ったのだ。家族で出掛けようなどと、千鶴が覚えている限り、あった試しがない。
驚きのあまりみんながぽかんとしていると、
「どうだ、修有、海より山がいいかな」
そう言いながら、今度は新聞で顔を隠してしまった。隠しきれなかった耳朶が真っ赤に染まっていた。
そっと修有を横目で見ると、漫画を睨み付けたまま、修有の耳朶も真っ赤だった。
不在がちな父、お嬢様気質の母、反抗期に入った修有──ウチはみんなバラバラだ、と思っていたが、案外そうでもないらしい。
父にコーヒーを淹れながら、年々そっくりになっていく父と弟に、千鶴は小さく笑ったのだった。
まさかそれが、家族4人の最後の光景になるとは、誰もが夢にも思っていなかった。
最初のコメントを投稿しよう!