第3章:暗い予感

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 暗い映画館を出て近くのバールに入り、エンパナーダを肴にビールを飲む。酒と一寸した料理を出すバールは、美味で値段も手頃、昔住んでいた南米のブエノス・アイレスの街角のそれに似ている。二杯目を飲み干して、待つ人も居ないホテルの部屋に引き返した。  腰の沈む不快な古いベッドに横たわり、鈍い裸電球の輝きを見つめていると己の行く末や、別れて暮している幼い娘の事など、不安と焦燥に駈られて堪らなくなる。  起き上がり窓のカーテンを開けると、眼下のバールの明りは未だ消えやらず、酔客の辺り憚らぬ話し声が深夜の石畳に響いて、四階の達也の部屋まで声高に反響し、眠れぬ旅人の神経を苛立たせた。 《何故、何年もかけて築き上げたアメリカの生活と経済的基盤を捨てて来たのだろう? 何も会社まで手放す事はなかったのに……》と、悔やまれるが、今となってはそれも遅い。 〝我、事に当たって後悔せず〟やってしまったことは、もう取り返しがつかないのだ。自分が判断し、下したその結果を甘受しなければならない。達也は観念して目を瞑った。  娘と別れて淋しかったのは事実だが、妻との離婚は必然だった気がする。相性が合わなければ世間的な体裁を気にして無理を重ねる必要はないし、それに待ち望んだ息子を殺された父親として、妻を許すわけにはいかなかった。役人の家庭に育った苦労知らずの若い妻、十三歳という年齢の差、価値観の違い、考え方の違い、全てが達也の好みとは違っていた。何故そんなタイプの女性を選らんだのかというと、自分も一生に一度は堅実な家庭の娘とまともな結婚をしたいという少年時代に抱いた幻想的願望がそうさせたのであろう。  有名女子大学の英文課を出て、商社に勤めていた妻に出合ったのは、達矢が三五歳、彼女が二二才の春の日だった。  同じマンションの隣室に若い姉妹が一緒に住んでいるのは知っていたが、言葉を交わす機会もなく、年齢も離れていたのであまり気にもしていなかった。時折尋ねてくる母親らしき母子の会話を聞くともなしに耳にして何とはなしに、良家の子女という印象を持っていた。  ある雨の朝、階段を下りて行く達也の背後から悲鳴が聞こえ、脚を踏み外した若い女をとっさに抱きかかえ助けたことがあった。  縁は異なもの味なものというが、雨に濡れた階段が取り持ってくれた妻との縁だった。一回り以上も歳は離れていたが祝福されて一九七五年二人は結婚した。
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