第1章

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第1章

 まるで蝶がひらりと飛ぶような動きだった。  と言って褒めたわけではない。男が手にしているのはバタフライナイフ――確かに名に蝶を冠してはいるが、蝶よりはよほど物騒なもの――だからだ。  しかし赤城遠矢(あかぎとおや)の目に、ナイフの軌跡はスローモーションのように見える。避けつつ反撃するなら造作もない。だが遠矢はタイル張りの古いビルの壁を背に突っ立って、チンピラ風の男とその手のナイフを、女性のように長い睫毛が影を落とす瞳で、冷静に観察した。  男が本当に自分を刺すかどうかを。  九月に入って初めて長袖のシャツを着た日だった。両側をビルで挟まれた細い路地の奥は、夕暮れに沈みかけて薄暗い。浮気調査の仕事の関係で現場のラブホテルを見に来た遠矢は、たまたま、強引に女性を連れ込もうとしていた若い男と行き会った。  刺されてもし死ぬなら、それは願ってもなかった。女性の姿はすでにない。ナイフを出すところは見ていたから、人を呼んでくれるだろう。彼女が何もせず逃げたとしても、自分の死体が見つかったとき、日本の優秀な警察は、その誇りに賭けて犯人を捜し出してくれるはずだ。一度は警察官として末席を汚したかつての同僚の死を、悼むかどうかは別として。  誰かを助けたことによって死ぬ、それは赤城遠矢という人間の最期としては満点だった。 「ふっざけんな、クソガキが!」 「いや、君の方が年下だと思うんだけど……」  一度足払いを掛けて転倒させたことが許せないらしい。安っぽい叫びを上げて突進してくる。いかにも素人くさい柄の握り方や、勢い任せの助走。少しがっかりする。この分ではせっかくの刃渡り十五センチも深く刺さることはないだろう。それなら次にすべきことは何か。男はキレやすいだけで、その筋ではない。ナイフなど、他人を脅すためにしか使ったことはなさそうだ。そういう意味では本当のチンピラだった。痛い目に遭う方が後々男のためだ。
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