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遠矢は一度まばたきする時間でそう結論した。細く息を吐き出す。それと同時に全身から力を抜く。リラックスが基本だ。流動的な力が空気のように重さもなく、全身に行き渡る。
一歩前に出た。そして――
「……ッ!」
双方に伝わる、ずん、と重い感触。男は驚愕に目と口をぽかんと開けた。
遠矢は男の前に踏み込み、突っ込んでくる体を両腕に抱き留めるようにしながら、右の脇腹の前に構えられたナイフを腹に受け止めたのだ。
ひょろりと背が高いだけで、いかにも人畜無害に気弱げな顔を半端に伸びた黒髪が縁取る男。刃物を振りかざせば腰を抜かすと思っていただろう。それが、自ら抱き付くようにして、ナイフに刺されに来たのだから、驚くのも無理はない。
「な、な……っ、テメエッ! 何考えて……え、う、うわああっ!」
案の定男は自分が刺されたかのような悲鳴を上げた。遠矢は全く表情を変えていなかったからだ。あの、その人嫌がってますよね、と声を掛けた最初からずっと、今も、年齢よりずっと若く見られる細面には人のよさそうな笑みが浮かんでいる。ナイフは確実に肉に刺さっていた。見る間に血があふれて白いシャツを毒々しい赤に染めている。
にも関わらず、微笑み。白磁の肌をした人形のような。
「ひいいいっ!」
ナイフが、カラン、とアスファルトに転がる。男は怪物でも見たような顔で後ずさる。
「そんなに怖がらなくても……。うん、でも、これくらいじゃなんともないんだ」
確かに傷はずくんずくんと鋭く痛む。だがこんなものでは痛んだ内に入らない。と思うと、コンマ数秒のフラッシュバックが起こる。自分の手で傷付けた少年の、褪せない血の色が、瞼の裏を真っ赤に染める。ああ、そうだ、自分が傷付けた彼の痛みに比べれば、ないも同じだ。
遠矢は泡を食って逃げ出そうとする男の腕をつかんで背中に捻り上げ、ぐるりと体を回転させて顔から壁に押し付けた。
「うあ、うああ! 助けてくれ……!」
「別に取って食ったりしないって」
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