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遠矢は苦笑しながら、男を保持したまま、ジーンズの尻ポケットからスマホを取り出した。緊急をタップして、一一○を押す。すぐに男性が応答する。
『一一○番です。事件ですか、事故ですか』
「いっ、いてえよおおおっ、お、男に、さ、刺されたあああっ!」
男がぎょっとする。遠矢は雰囲気を出そうと思い切り顔をしかめ、情けない悲鳴を上げた。
「助けてくれ! 死ぬ、死んじまうー!」
『落ち着いて、すぐに警官と救急車を向かわせます。住所はわかりますか』
「じゅ、じゅう……しょは……」
壁に取り付けられた住所表示を読み上げながら、はっとした。
この住所、もしかしたら、あいつのいる署の管轄じゃないか?
あらゆる感情が希薄になった胸の中で、唯一遠矢の心臓を波立たせる存在。
だからだ、会いたくない。
男を解放するわけにもいかず、遠矢は通話を終えたスマホを仕舞いながら、大勢の警察官のうちのたったひとりに当たらないことを祈った。
しかし何かを願うときに限って逆のことが起きるのは、人類に普遍の決まり事だ、ということを、遠矢も実感することとなった。
大通りの喧噪に混じって、パトカーのサイレンが聞こえ始める。それからほとんど待つこともなく、ふたりの足音が路地へ駆け込んで来た。
「通報されたのはそちらですか」
ひとりが言う。聞き覚えのある声だ。
遠矢に近付く、かっちりとした紺色の制服のふたり組。路地の入り口がまるで四角い額縁のように通りの明かりを切り取っている。逆光がふたりの顔立ちを判然とさせない。だが、片方の長身で肩幅の広いシルエットは。
遠矢よりも早く、ひとりが驚きの声を発した。肌寒くなり始めた空気に朗々と通る声。
「何やってんだ、遠矢!」
――ああ。
内心で苦いため息を漏らす。やっぱり会ってしまった。
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