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突然体が浮いたからだった。心臓が跳ね上がった。それは驚いたからではなく――
状況を署に連絡していた隼人が、無線機を腰のベルトに納めるところまでは目にしていた。ふと視線が逸れたのを見計らったように、隼人は遠矢の背後に近寄るや、左腕を背に、右腕を膝の裏に回して、横向きに抱き上げたのだ。
大の大人を平然と支える力強い腕。遠矢は現役時代に比べるとずいぶん痩せていたが、そうは言っても隼人と同じくらいの身長と相応の体重がある。
「おまえ……っ、何してるんだ……!」
遠矢は恥ずかしさのあまり、じたばたと暴れた。鼓動が乱れる。耳まで熱くなる。
「お、下ろせよ……! そんな重傷じゃないし……!」
だが隼人は腕を緩めず、じろりと一重瞼の下の強く輝く双眸で遠矢を睨んだ。数秒は睨み返した。が、結局視線を受け止め切れず、目を逸らす。
「おまえ、またやったんだろ」
呆れたような小声。遠矢は逃れるのを諦めるのと同時、聞こえない振りをする。
「自傷行為なんてガキじゃあるまいし」
「じっ……」
ぎくりとして顔を向けた。隼人は前を見て歩を進めている。三十五の男を抱え上げたまま。
「これは……ほんとに刺されたんだって」
えへへと笑いながら、バレるとわかっても言い訳をした。もちろん隼人には通用しない。
「おまえがあんな素人に刺されるわけねえだろ。ああ見えてあいつ、凄腕の暗殺者だったりするのか? そうでもなきゃ、警視庁一の格闘マニアに一撃食らわすなんて無理だ」
隼人はきっぱりと断言する。
遠矢は形のいい唇をへの字にした。ごにょごにょと反論する。
「な、なんだその、格闘マニアって。俺は別にそんなつもりなかったし……」
「そのつもりはなくても、今でもみんなそう思ってるぜ。日本一強い警官に憧れてんのは俺だけじゃねーの。ソレも」
ちらり、と視線を白いシャツに浮かんだ血の染みにやる。へその左側に手のひらほどの大きさで広がった、夕闇の中では黒にさえ見える赤。
「あんなやつに刺されたところでどうってことないって思ったから、わざと近付いたんだろ」
「……」
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