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3.小さな紙を潜ませて―花名―
早川先生と本屋で会った日から、一週間が経った。
あの約束を先生は本当に覚えているんだろうか。期待してはいけないと思いながらも、私はいつもより一時間早い時間に、家を出かける準備をしていた。
「花名さん、もうお出かけですか?」
通いの家政婦である鈴枝さんが、夕食の用意をしながら玄関を覗き込んだ。鈴枝さんは家政婦としてもうずっとこの家で働いている。
この家の持ち主である伯父夫婦は、母が亡くなってから、私の後見人となり全ての面倒を見てくれていた。
音楽ホールなどの設計士として有名な伯父さんは、一年のほとんどを海外で過ごすし、伯母さんもパーティーなどに同伴するために、一緒に渡航している。
だから、鈴枝さんがいない日は、この家にいるのは私一人になる。
始めは寂しさを感じたけれど、もう今では一人でいることにも慣れてしまった。
十分すぎるお小遣いを貰っているし、食事や洗濯などは、鈴枝さんが夕方帰るまでにほぼ済ませてくれるから、特に不自由なことはない。
それでも、時々どうしようもなく寂しく思えるときがある。きっと私は、もの凄く欲深いんだろう。
「塾に早めに行って勉強しようと思っているんです」
「そうですか。ではお食事は温めて食べられるようにしておきますね」
鈴枝さんに礼を言ってから外に出た。
もうすぐ春休みも終わりだ。綻び始めた桜の花が、春の香りを漂わせている。
私は、スッと春の香りを吸い込んでから、塾へと歩きだした。
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