3.小さな紙を潜ませて―花名―

3/3
1020人が本棚に入れています
本棚に追加
/1339ページ
「そろそろ小林さんが来るから、教室に行った方がいいよ」 すっかり小説の世界に没頭していた私は、現実に呼び戻された。 時計を見ると、いつの間にか一時間も経っていた。 「すごい集中力だね。何度もそばを通ったりしていたのに、一度も顔を上げなかった」 「私、一度読み出すと何も聞こえなくなってしまって」 本を返すと、早川先生は少し嬉しそうに微笑んだ。 「僕もそうだからわかるよ。でも佐伯ほどじゃないけどね」 先生の笑顔を見ると、心がユラユラと揺れる。どうしてだろう。 「本、ありがとうございました」 「あ、そうだこれ」 先生は、長方形の小さなカードを私に渡した。 「これ、塾の宣伝ですか」 「違う、違う。裏を見て」 先生に言われたように裏返すと、電話番号とメールアドレスが書いてあった。 「これ……」 「もう春季講習も終わりだから、本を読みきれないでしょ。時間のあるときにでも、連絡しておいで。あ、でも他の塾生には内緒にしておいて。色々面倒だからね」 私の目にじわりと浮かんだ涙を見て、早川先生は頭を掻いた。 「泣かないで、そんなにたいしたことをしているわけじゃないんだから」 「先生ありがとうございます。私、早川先生のこと、本当に大好きです」 先生はびっくりしたように瞬きを繰り返した。私自身も口から出た言葉に驚きを隠せない。 「あ、あの……、尊敬しているって意味です」 取り繕うように言ったけれど、先生はどう思っただろうか。困っているかもしれない。 「うん……、わかってるよ。じゃあまた授業でね」 私は先生の目を見ることもできないまま、一礼してから教員室を出て、教室のいつもの席に座った。 外からカツンカツンと階段を昇る靴音が聞こえる。――小林さんだ。 もう秘密の時間は終わり。魔法から覚めたみたいに寂しい気持ちになった。 本当に連絡したら、先生はまた本を読ませてくれるんだろうか。電話番号の書かれた紙を、ポケットの中で大切に撫でてから、私は静かに手を抜いた。
/1339ページ

最初のコメントを投稿しよう!