第一部 1.これもひとつの出会いのカタチ―花名―

2/4
1020人が本棚に入れています
本棚に追加
/1339ページ
「ごめん」 しばらくして、男の人の声と共に、大きな音を立ててドアが開いた。一瞬にして教室が静かになる。 「遅くなりました。英語担当の早川冬吾です」 走ってきたのか、肩で息をしながら早川先生は言う。 名簿順に名前を呼び始めても、私は先生のことを眺めていた。眺めるというよりは、どこか寂しげな瞳に、目が吸い寄せられていたというのが正しいのかもしれない。 先生を見ていると、懐かしさを感じて、切ない気持ちになった。どうしてそんなふうに感じるんだろう。 「佐伯……花名で良いんだよね。あれ、佐伯は休み?」 名前を呼ばれていたことに気づき、慌てて立ち上がる。 「は、はい!」 「席は立たなくてもいいよ」 クスクスと他の塾生たちが笑う。 いきなり注目を集めてしまったことに、恥ずかしさで顔が熱くなった。早川先生にも変な生徒だと思われてしまったかもしれない。 ちらりと先生に目をやると、何かを考え込むような顔をして、私を見ていた。けれど、目が合うと何でもなかったかのように視線を名簿に戻す。 何だったんだろう。気のせいなのかな。 「ちゃんと話を聞いていないとダメだよ」 窘めるように言いながらも、先生の口元は微笑んでいたように思えた。でもそんなことはあるはずがないし、きっと私の見間違いなんだろう。 全員の出席を確認したあと、出席簿を閉じると、先生は前を向いて言った。 「春季講習の短い期間ですが、よろしくお願いします。それでは、授業を始めるからテキストを開いて」 先生は、ホワイトボードに英文を書きだす。 とても綺麗な字だ。男の人なのに、こんな綺麗な字を書く人もいるんだ。ホワイトボードとペンの擦れる音を聞きながら、私は先生の細くて長い指を見つめていた。 先生は、ネイティブのように美しい発音で、英文を読み上げる。 少し低めの甘い声に、つい聞き惚れてしまっているのは、きっと私だけではないだろう。 読み上げながら、席の間を歩いていたはずの早川先生が、私の机を指でトントンと叩いた。 いつの間に隣にいたんだろう。すっかり私は上の空だったらしい。 「一番の問題を、読んでから訳して」 「はい」 私は急いで問題を読み上げ訳した。 英語は得意な科目だから答えられたけれど、他の教科だったら答えに詰まっていただろう。 「佐伯は発音が上手だね。でも、授業にはもう少し集中して欲しいな」 先生は見間違えではなく、確かにフッと笑ったように見えた。
/1339ページ

最初のコメントを投稿しよう!