【其の1】商工観光課のオカン

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9月半ば過ぎ。 もうじき夕方だというのに、雲ひとつ無い真っ青な空が眩しく、車から降りた男は周りの樹木から聞こえる蝉の音に、ウンザリと眼を細めた。 男は鞄を斜めに掛け、紙袋を手にし、目の前の建物へと足を向ける。 温泉街から少し高台にある『純和風旅館 華岡(はなおか)』 今日最後の旅館だ。 重厚感のある入母屋屋根(いりもややね)の玄関を潜くぐると、カウンターにいた初老の男性が笑顔で出迎えた。 「あぁ、いらっしゃい、湊くん」 支配人の花岡 恭兵(きょうへい)だ。 恭兵はカウンターから客ではない、その男"湊"の近くへと近寄った。 「花岡さん、こんにちは。 夏祭りの御協力、ありがとうございました。コレ、紅葉まつりのポスターとパンフレットです」 「ご苦労様。また張り替えておきますよ」 「お願いします」 湊は笑顔で紙袋を手渡すと、額の汗をハンカチで拭った。 「外、暑かったでしょ。麦茶持ってくるから待ってて」 「あ、すみません。お言葉に甘えさせて頂きます」 いくら車とはいえ、朝から何件もホテルや旅館回りをして少々疲れた。 この後は職場に戻るだけだし、少しここでノンビリしても良いだろう。 カフェスペースへ向かう恭兵の後ろで、そう自分に言い訳して小さく息を吐いた。 冷房が入ってるロビーは照明がほんのり暖色系で落ち着く。 スリッパに履き替え、待ち合いスペースのソファーへと進む。 黒々と磨き込まれた板張りのロビーの先。 正面に見えるのは、広めの坪庭を切り取る、大きなはめ殺しの窓。 そこに写し出されたのは────
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