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AnotherStory‐季節外れの勿忘草‐
その夜、僕はクタクタで喫茶店に着くなり、控えめに隅に置かれているソファへ倒れ込むように寝入った。
胸が焼けるように痛むが、これは紅音さんの泣き声のせいではない。
もっと実を伴った、焼ける感覚だ。
だけど慣れてもいた。
これは僕の力の代償だから。
朝、目を覚ました僕は、黒猫の姿で寝ている隠を確認すると、その焼ける感覚が失われていることに気付く。
「おはよう、明君」
「マスター、おはようございます」
起き抜けで、マスターは端正込めて作った珈琲をカフェオレにしてくれた。
「朝からブラックは胃によくないからね」
マスターの気遣いが暖かい。
「マスター、そういえば『馬鹿』は?」
口に入れたまま、寝てしまったはずなのだが、口の中にも、ソファの上にも、床にもない。
かといって飲み込んでいれば、それはそれで気付く。
「彼なら、そこにいますよ」
マスターが指差したのは、窓際のブックスタンドに立て掛けられた小説達の横。
小さな花瓶に入れられた一輪の勿忘草の花。
その窓は日向家のある方向を向いている。
「小洒落た気遣いですね」
「これくらいしかしてあげられないからね」
エアコンの風に揺らされて、心なしか、今か今かと待っているようにも見えた。
日向家の、お姉さん。紅音さんが。
「でもどうして勿忘草のままなんです? マスターのことだから妖怪に戻したのかと思ってましたけど」
「戻したのだけど、勿忘草に戻りたいって、すぐに花に憑依しちゃって」
どうやら余程、紅音さんを気に入ったようで、喫茶店なら会えるとマスターが伝えると、ここから離れないとまで言っていたらしい。
ここまで執着すれば、穢れくらいは垂れ流すだろうな。
「長いこと説得したけど、留まるみたい」
諦め顔で苦笑いを浮かべたマスターに、愛想笑いで合わせる。
「それより明君は大丈夫? 久しぶりに力、使ったでしょ?」
「それは大丈夫です。少し休めれば、ほぼ戻りますし、きつければ、神社に行きますので」
僕はカフェオレを啜る。
「あっ、美味い」
立ち込める湯気に当てられて、体中が喜んでいるようだった。
「それじゃあ、開店するからね。飲み終わったら、流しに置いておいてね」
一日を終えて、また一日が始まる。
こうして、喫茶店は日々、休むことなく、一日を始めた。
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