AnotherStory‐季節外れの勿忘草‐

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「そんなことはないですよ、無難なものを選んでいるだけですよ」    マスターはするりと本棚から小説を取ると、店内の隅に置かれた寂れた座椅子に腰を落とした。  小説を開くと、タイトルが指先の間から見える。   「また来ても良いですか」    紅音さんがぽつりと呟いた。  紅音さんは勿忘草を見つめながらに尋ねる。   「もちろん。"貴女が望むから来るのではありません。私達が望むから来るのです。"です」   「です、です?」    優希さんが神妙な表情を見せるが、マスターは顔色一つ変えずに小説のタイトルを見せた。   「これに載っていたもので、つい」    タイトルは『人生を変える100の台詞』。  確か、アイリッシュ何たらとか言う売れない詩人が、身分不相応なタイトルの小説を出して、全く売れなかったのだとか。  この手の小説は、売れっ子な著名人が書いてこそ、一般人の手に渡り、その中から自分に合ったものを見付けて、自分の成功を夢見る。  という庶民の嗜みを理解しなかった、自尊心の塊のような詩人の愚行ではあったのだが、マスターは気に入っているようで、なにかと引用することがある。   「……ありがとうございます」    いまいち吸収しきれていない顔で、紅音さんは礼を述べた。  優希さんも悩ましい表情で、ぶつぶつと呟いている。  が、間を置いて、僕を見ると、爽やかな表情で、綺麗なお辞儀を見せた。   「私もまた来ます。次は、友達として」    その意図に気付いたのは僕だけ、というか、僕しか知らないことではあるのだが、僕が断る理由はない。  とても賢く、感情豊かな優希さんを拒むなんて、考えもせずに、「お待ちしてます」と答えて、会釈をした。   「それでは今日は帰ります。お母さんも心配してるので」   「うん。またおいで」    優希さんと紅音さんは明るい笑顔を見せながら、お店を出て行った。  店先から流れ込んだ空気は冷たいが、どこか爽快感をもたらしてくれたようで、僕を見た隠は「緩んでる緩んでる」と、僕の表情を指摘した。   「いいんだよ、いい子達を見て、嬉しくならない方がおかしいよ」   「こういうところが、すかしてるって言ってんだけど」    隠の嫌みは相変わらずだが、それ以上に清々しい気分だった。  これが僕達の仕事なのだ。    この浮世の理が崩れないように、僕らは珈琲を飲みながら、今日も依頼を待っている。
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