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彼女が諦めたのを確認し、ぼくは安心して読書に没頭する。彼女はうらめしそうな様子で辺りをうろつき、肩をぶつけてきたり、脛めがけて小蹴りをしたりして八つ当たりを繰り返す。それら物理的な妨害も、文字を追っているぼくには他人事のようにとどかない。
ぼくは紙面に印字されたインクの海に潜行し、内側に満ちる活字の順列で呼吸をする。視界は常に黒いので不鮮明で不明瞭、不可解で奇怪、自分が目を開けているのか閉じているのか、それすらも判然としない。ただなにかを追うようにして、前に前に、ひたすらに進んでいる。時折、眼前をよぎる光で思い出したかのように海上へと顔をのぞかせると、深緑芽吹きの田園でカカシのように突っ立って、青空に浮かぶ白い雲を数える、渋谷のスクランブル交差点で立ち往生して、行き交う人々を数える、月明かりだけを頼りに暗い森林を行き、転がる頭蓋を足台に、荒波うつ断崖の縁を跳び、足もとにひろがる暗夜を数える。
一夜にして立ち昇る飛沫で物書きを忘れ、二夜で滄海に溺れる夢を見る、三夜目の布団のなかで読書をしていると、ふと思い立ったぼくは、隣で横になっている彼女に「いい加減、かんべんしてくださいよ」と言ってみた。スマホでパズルゲームをしていた彼女は「いやです」と返答し、「よし、6連鎖」と小さくガッツポーズをした。良い返答を期待していたわけでもなかったので、ぼくはそのまま読書を続けた。
翌朝、スズメの声が聞こえはじめ、やけに読書が進んだなと思っていると、そういえば夜間、一度も彼女の茶々入れを受けていないことに気が付いた。普段ならば、寝相の悪さを巧みに利用した打撃や、深夜に設定されたアラーム攻撃があるはずなのに。
少し気になったので本から顔を上げ、辺りを見回す。どうやらまた知らぬ間に外に出ていたようで、ぼくは近所の公園のベンチに座っていた。滑り台やブランコには小学校の低学年くらいの子どもらがわちゃわちゃと遊んでおり、時計台で時間を確認すると午後の4時を回ったところであった。彼女は子どものなかに潜んで機をうかがっているのではと予測し、動き回る子どもらを観察したのだが、その姿は見られなかった。読書をしていればまた出て来るだろう。そう思って本に目を戻そうとすると、すぐそばにあった植木の枝が一本折れかかっているのが目に入った。なにやら妙な胸騒ぎに襲われはしたが、深くは考えないで読書を再開した。
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