1.読逍遥《しおりなければよみとまれぬ》

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 次に本から顔を上げると、ぼくは車の後部座席にいた。外を見ると暗闇で、時折遠くに民家の明かりが見えるだけで、他に景色らしきものはなかった。正面に向き直り、運転手の様子をうかがう。もしかしたらその人は彼女ではないかと軽く期待したのだが、運転していたのは壮年の男性だった。 「どうしました?」  急に運転手に訊ねられ、ぼくが、あ、う、と言葉に窮していると、 「大丈夫ですよ、もうすぐつきますから」  とややこちらを振り返りながらそう言った。過ぎ去る街灯に一瞬間照らされた横顔の鼻梁は、なにかで抉られたかのような不自然なカーブを描いており、ぼくは逃げるようにして手元の本に目を落とす。視界の隅にある折れ曲がったサイドミラーがしばらく脳裏に残っていて気持ち悪かった。  そしてどうにも息苦しいので本から顔を上げると、ぼくは走っていて、なにやら背後にはぼくを追っているものがいるようだった。これは彼女だろうと後ろを見ると、見知らぬ女性が険しい顔で接近してきていたので、ぼくは全力で逃げた。なにか悪いことでもしてしまったのだろうかと、あれこれ考えてみたものの、思い当たる節はなかった。それよりも日頃の運動不足がたたってか、体力も限界に近かったので、ぼくは曲がり角を素早く曲がり、手前にある電柱の陰に身を隠して女性をやり過ごすことにした。  ぼくが身を潜めた数秒後に女性が角を折れてきたが、そのときぼくはもう読書に夢中になっていたので、互いに互いを認め合うことなく終わった。彼女が落としていった紙切れにもぼくは気付かなかった。  しかし、邪魔の入らない読書というものは、なんとも滑らかに進行するものだと思った。思い返せば同じ本を何年も読んでおり、ページ通りに読むのも飽きてきたので、適当に開いたところの文章をアトランダムに読んだ。そうなってくると、もう本に書かれていることなどまったく頭に入ってこず、言葉なんてものは意味をなさない記号になっていた。このまま読んでいてもなんの意味もないことにようやく思い至り、ぼくははじめて自発的に本を閉じ、それを目の前の本棚にしまった。
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