1.読逍遥《しおりなければよみとまれぬ》

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 近所の公園にたどり着いたぼくは、周辺を駈けまわる子どもたちを避けながらベンチへと向かい、そばにある植木の折れかかった枝に手を添えてもぎ取る。折った枝を手に持って、公園の前に停まっていたタクシーに向かい、それでサイドミラーを叩き折り、ずっと後ろにいた女性に「なにか用ですか?」と訊ねる。彼女は《用はないけど》と言う。用がないならどこかへ行ってくれ、なんていえない。これからもずっとそばにいてほしい。一瞬も離れることなくそこにいて、常に移ろおうとするぼくを、もうどこにも行かないように見張っていてほしい。もしどこかに行ったのなら、引っ張ってまたここに、今この瞬間に連れ戻してほしい。《きみは自分が軽いから簡単だと思っているけど、けっこう大変なんだよ》ごめん。《っふ、いいよ》ありがとう。《どういたしまして》代わりにぼくはきみに言葉を書くよ。きみがぼくにしてくれたみたいに、言葉を書いて、それをきみに、ずっとあげる。《たとえば、どんな?》《春風吹く 目をつむってやりすごす きみの前ではもうなにも読まない》《っふ、なにそれ》《どんなに寒い日も 大江健三郎とはもう手をつながない》《ようやく空いたきみの手 さわる前にふっと吐息ふきかける もう春も終わるよ》《桜木の下で待ち合わせる 一睡もせず微睡みもせずにきみを待てる》《喧騒のただなかでもひと目できみを見付けるの得意だよわたしは》《ただよう沈黙にことばを泳がせてそれをずっと育てよう》《いいよでもそれはわたしではなくて、それを読むすべての人のためにして》分かった。《約束だよ》分かった。《良かった。じゃあ、そろそろお別れだね》うん、分かった。分かっていた。いずれきみがいなくなってしまうことなんて、でも読書を中断するとき、栞をはさむと必ずきみとその言葉を思い出すよ。思い出して、なにかを書きたくなる。たぶん、またきみのことを書いてしまう。約束なんて知らないよ。ぼくはずっときみのことを書く。そうしなければ、きみのことも忘れてしまうようなところに、いってしまうような気がするから、ずっと書く。書いて書いて書いて、でもたまに書くのも止めるよ。止めて辺りを見渡して、この小説にはいないけど、この世界のどこかにいるきみのことを見付けにいくよ。
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