そして、新しい春<完>

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「……きゃっ」  誰かが、強く私の腕を引いてその暗がりに引き込む。驚いて小さな悲鳴を上げるが、その手のひらの温度に私は覚えがあった。 「……き、紀一郎さん?!」  顔をあげると、あの懐かしい顔がそこにあった。暗がりで少しわかり辛いけれど、私には彼が微笑んでいるという事がはっきりわかる。紀一郎さんは親指で、私の目じりにそっと触れる。その時、私が涙を流していたということに気づいた。 「久しぶり、桐子さん」  彼の唇が、私の名前を形作る。たったそれだけなのに、私の胸の中で喜びが湧き、溢れかえる。呼吸をするたびに、それが漏れていき……私たちを包み込んだ。 「……本当ですよ。いつもの、アレだってなかったし」 「アレって、源氏物語に挟んでいたやつ?」 「……それです」 「ごめん、しばらく忙しくて」  紀一郎さんはポケットの中から何かを取り出して私の手に乗せ、握りっぱなしだったネックレスを奪いポケットに仕舞ってしまった。私の手のひらには、真新しいクラゲのストラップ、その先に付いているのは……見たことのない鍵だった。 「引っ越したんです」 「エリサから聞いてました」 「前の部屋よりも広い所……桐子さんも、自分の部屋が欲しいでしょう?」 「私の……?」 「そうです。前に言ったこと、忘れました? 僕の苗字を君にあげるって、だから一緒に暮らしましょう」  返事の代わりに、私はその鍵を強く握りしめた。紀一郎さんは緊張していたのか、大きく息を吐く。 「断られたらどうしようかと思いました」 「……絶対に、そんなことない。紀一郎さんと離れて、私は紀一郎さんが好きだって、ずっと一緒にいたいって思ったから」 「良かった。桐子さんにそこまで言ってもらえたら、男冥利に尽きる。そうだ、もう一つあるんです」  紀一郎さんは私の腰に腕を回して、力強く引き寄せて抱きしめる。耳元に紀一郎さんの呼吸が触れるたびに、こそばゆくて仕方がない。 「上に、部屋を取ってるんです」 「……え?」 「祝賀会ふけちゃって、二人でそっちにいきません? ね、桐子さん」  彼の胸の中で小さく「はい」と告げると、彼は満足げに頷く。 「七階の、715号室です。誰にもバレないように来て」 「はい。あの、紀一郎さん」 「なあに?」 「ラッキーセブンですね」 「……本当だ」  紀一郎さんは優しいけれどわがままで、強引で……時々、とてもスケベになる。でも、私は彼の「お願い」を拒否することもできない。それくらい、彼のことが好きだから。  私が笑みを浮かべると、紀一郎さんはすっと体を離した。指先で私の顎を持ち上げて、ゆっくりと近づいてくる。 口づけをされると身構えると、彼の顔はぴたりとそこで止まる。 「待ってますから、すぐ来て」  するりと私から離れていく。風のようにつかみどころのない人だ、相変わらず。 「あ、トーコ! ここにいたの?」  私の事を探していたのか、エリサが仁王立ちで鼻を膨らませていた。 「ご、ごめん」 「もう! 早く行こ、乾杯始まっちゃうよ」 「うん」 「トーコもトーコだけどさ、志麻っちも志麻っちだよ。会場とは全然違うところに、鼻歌交じりで行くんだもん」 「あのさ、エリサ」 「ん? なあに?」  私は彼女のそっと耳打ちする。今までエリサに内緒にしていた、私と彼の恋の事を。エリサは驚きのあまり叫ぶこともできず、口をあんぐりと開けていた。 「だから、行かなきゃいけないの……行きたいの、ごめんね」 「え? あ、ちょ、ちょっと待って」 「詳しいことは、今度話すから! ごめんね!」  私はクロークから荷物を受け取り、エレベーターに乗る。七階で降りて、紀一郎さんが待つ部屋の前で立ち止まった。ドアノブに触れると、私が力を込めるより先にドアが開いて私は室内に引き込まれる。 「……っ!」  小さな悲鳴は、彼の口内にあっという間に溶けていく。触れ合う唇の熱も、まじりあう粘膜の感触も、懐かしさのあまり頬に涙が伝う。彼はそれに気づいたのか、私の頬を手のひらで包み込み涙が流れるのを楽しんでいた。 「桐子さん」 「……はい」 「愛してる」  紀一郎さんが、私の額に口づけをする。頬に、耳に、首筋に。そして私の左手を取って、薬指に。私がほっと息を吐くと、彼はまた優しく私を抱きしめてくれる。 「紀一郎さん、私も……」 「『私も』?」 「愛してます」  今度は互いに唇を寄せ合う、ほんのりと優しく、甘く触れ合った時……私の思いすべてが彼に伝わったような気がした。  彼の唇の温度は、ゆっくりとじんわりと私に教えてくれる。これから、また新しい恋と日常が始まるのだと。 ~fin~
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