秋 ~クラゲとキスマーク~

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◆◆◆  僕を知らない桐子さんを誰かが知っているということに、僕の心は大きく揺さぶられた。それを桐子さんにぶつけた時、その瞳に映る僕が揺れていた。  その中には困惑と、一種の恐怖のような桐子さんの感情が映っていた。  僕の隣で、桐子さんが深く呼吸を繰り返して眠っていた。半ば無理やり押し付けた好意にされるがままになりながらも、桐子さんは僕の熱情、僕の全てを受け止めてくれた。その唇に触れる度に桐子さんが出す甘い響きをはらんだまま、僕の名を呼んだ。その度に、えもいわれぬような幸福感に満たされるのだ。  桐子さんの髪をかき上げる。耳と首筋の境に唇を寄せて、強く吸い上げた。桐子さんは小さなうめき声をあげるが、一向に起きる気配はない。それを確認して、さらに深く吸い付く。唇を離した時、舌がひりひりと痛んだ。  唇を寄せた場所を暗闇のなか目を凝らして見ると、くっきりと赤い痕が残っていた。  僕の痕跡だ。それにほくそ笑み、桐子さんの隣に横になって目をつぶった。  あの時、桐子さんに嫌われようと思った。  優しい桐子さんに嫌いになってもらおうと思った。  無理を言って桐子さんを抱こうとしたら、桐子さんは僕を嫌いになってくれるに違いにないと思った。  あんな自分勝手な思いを小さな肩にぶつける自分を、嫌いになって欲しかった。  中途半端に思いを残されたまま僕の目の前からいなくなってしまうのであれば、地獄のへりで背中を押すくらい、僕にとどめを刺してほしかった。  そんな僕を、桐子さんは引き止めた。その唇と、その小さな体で。それがどれだけ嬉しかったか、彼女には分からないだろう。  気持の高ぶりは抑えきれず、彼女の皮膚の上の、赤い印として残った。  それでも、どれだけ長い時間を経ても、あの時の明美の言葉がくりかえしざわめいている。まるで、耳の近くで明美が囁いているように。   ――あなたのこと、嫌いになれたらよかったのに    その言葉だけを残して去っていった、随分と昔、並々ならぬ思いを寄せた僕の恋人を僕は忘れることができないのだ。  僕は呪われている、一生涯。たとえ桐子さんと居ても、その呪いが解けることはない。  研究室で講義の準備をしていると、誰かが外からノックをする音が聞こえた。手元においたレジュメに目を向けたまま『どうぞ』と声をかけると、ゆっくりとドアが開いた。 「失礼します、こんにちは」 「こんにちは。ああ、徳永君か。何かありましたか?」  彼、徳永君は鞄の中から茶色の封筒を取り出した。それと一緒に、ポロッと連なった絆創膏も落ちてきた。  持っていたペンを筆入れにしまい、机の端に置きながら彼に問いかけた。  この時は、ただの善意だけだった。 「あれ、怪我でもしたんですか?」 「いや。アイツ……若村、なんかでき物があったからあげたんですよ」 「そう、そうでしたか」  椅子を回して、僕は彼に背を向けた。この頬に浮かぶ笑みが彼にばれない様に。  彼女に付けた痕が、誰かに見つけられたときの感情は、ふつふつと小さく、だけど立て続けに沸騰するような、悦びに近い。 「それで、用事は?」  再び彼に向き直り、聞いた。彼の目線は別の方向にあるのか、目が合わない。 「昨日の二次会のお金、余ったんです。それで返しに」 「何だ、使い切ってくれても構わなかったのに」 「そんなに飲み食いできませんよ。今度は先生も一緒に」  徳永君は机の上に茶封筒を置いた。その中から金属同士がこすれ合う音が聞こえる。 「忙しいところ、すみませんでした」  彼は机に目を向けたままだった。 「こちらこそ、わざわざありがとう」 「それでは、失礼します」  彼はドアを開けて研究室から出ていった。そして、数秒経ってから足音が遠ざかっていった。  僕は置いた筆入れをもう一度手に取り、僕は昨晩の桐子さんのぬくもりを思い出しながら息を吐いた。  あの日から、桐子さんと僕の間で少しだけ距離が生まれたような気がする。互いの心の内を探り合うような距離がいまいちに気持ち悪い。どうにかして会話のきっかけを掴みたいと思っていた。  桐子さんの首筋から僕の残した痕が消えた頃、研究室に予想だにしなかった来客があった。 「久しぶり。元気そうね」 「……驚いた、友紀子か」  ドアが三度、ノックされた。まるで条件反射の様に『どうぞ』と応えると、軋む様な音をあげてドアが開いた。このギシギシという少し不快な音は、僕が学生としていてこの大学に在籍していた頃と変わらない。  扉の向こうに立っていたのは、久しぶりに見る顔だった。    中園友紀子。  彼女は、学生時代の同期だ。大学を卒業後小さな出版社で勤め始め、それからもたまに会っていた。しかし、僕と明美が別れてから……友紀子とも、随分長い間疎遠になっていた。  あのころに比べると大分老けたように見えるが……纏う雰囲気は20代の頃に比べても遜色ない。 「私も驚いた、志麻君、もう准教授になってたのね」 「もう何年も前に。そこ座ったら?」  僕は近くにあるパイプ椅子をさす、友紀子は肩からカバンを下ろして座った。 「ありがとう」  洗ったばかりのコーヒーカップにインスタントコーヒーの粉を落とし、ポットのお湯をそそいでいく。それを、自分のマグカップにも同じように繰り返した。 「ずいぶん長い間会っていなかったけど、元気そうで何より」 「志麻君も」 「今日は何しに?」 「仕事で近くまで来て、ついでだし久しぶりに顔を見たくなったの。……懐かしい、なんだか学生の頃に戻ったみたいになるわ」 「それは、学校に来たからだろ? 僕の顔を見たせいじゃない」  僕はコーヒーカップを友紀子に差し出す、そっと彼女はそれを受け取った。 「それもそうね。今、一階で志麻君の研究室の場所を聞いたカップルのせいかもしれないし」 「カップル? そんなもの、学校の中を歩けば山ほどいるよ」 「うん……でも、あの頃の志麻君と明美に似ていた気がしたの」  マグカップを机に置く手が、その短い言葉一つで震えた。その音を聞いた友紀子は、意味ありげに『明美のこと、聞きたい?』と言うのだ。  僕が最後に知る明美は、僕以外の誰かと結婚をして、子どもも小学校に入学したという…友紀子からきた電話の話の中だけだった。  もう、別れて以来明美には会っていない。  扉の向こう側に、足音が響いた。その足音は少しだけ僕の研究室の前で止まったように聞こえた。 「そうだ、この後暇?」 「何? 志麻君、私の事ナンパする気?」 「冗談言うのはやめてくれよ。もう一つ、懐かしい場所があるんだ。暇なら一緒にどうかと思って」  三人でよく行っていたバー。バーテンダーは変わってしまったが、お店はそっくりそのまま残っている。その話をしたら、友紀子は随分乗り気になっていた。  今日は、桐子さんのシフトの日だった気がする。女性を連れていくのは少し気が引けるが……友紀子の左手に輝く指輪を見たら桐子さんはつまらない嫉妬をすることないだろう。  彼女が、僕の事で誰かにやきもちを妬くことあるのだろうか? 今までそんなそぶりを見たことがない。見てみたいと思ってしまう自分がいる。  友紀子はさっそく家族に遅くなると連絡して、僕らは和三さんのバーに向かった。
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