そして、新しい春<完>

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 冬休みが明けてすぐ図書館に向かっても、あの本に紀一郎さんのメッセージは残っていなかった。私は肩を落としとぼとぼと図書館を離れていく。大学に来ることなんて、もう数えるほどしか残っていない。  私の胸に、ふっと不安がよぎった。その不安は、芽が出るとどんどん大きくなっていく。もしかしたら、紀一郎さんに何かあったのかも。もしかしたら、私の事なんてどうでもよくなったのかも。もしかしたら……他に、好きな女性でもできたのかも。それらはとめどなく私の中で溢れ、ぐるぐると渦を巻く。居たたまれなくなった私は、足早に彼の研究室に向かう。  ドアの前に立ち、震える手でノックをした。それでも、その向こうはしんと静まり返っていて……紀一郎さんがいる気配はない。私は鞄の中からメモ帳を取り出して、そこでふっと手がとまった。  今まで彼が大事にしていたものを、すべて壊してしまう。そのことに気づいて。私は深呼吸をして、その場を離れていく。不安な気持ちはいつまで経っても消えることはなかった。 「トーコは、家引っ越しするの?」  卒論審査も終わり卒業が決定したころ、私はエリサを部屋に招いていた。最近は飲み会続きで、それでもまだまだ話し足りない私たちは宅飲みでその欲を満たす。空になったおつまみの袋と、缶チューハイ。それが部屋に増えだしたころ、エリサがそう口を開いた。 「ううん。ここからでも通えるから、しばらくはこの部屋で暮らすつもり」 「ふーん。その方が楽でいいよね、引っ越しって面倒だもん」 「うん。今の時期はお金かかるしね」 「そうそう……そうだ、志麻っち引っ越しするんだって」 「え?」  その声が震えていないか、口から飛び出してから心配になった。幸いエリサは私のその変化に気づくことなく、話を進める。 「手狭になるからって。……ついに結婚とか? 先生、ずっと独身だったじゃん」 「う、うん」 「ゼミ生で、手伝いに行きましょうかって言ってもダメって言われちゃった。奥さんの顔、見せたくないのかな」  エリサのその明るい声も、私の耳には届かなくなっていた。じわっとにじむ涙を、エリサに気づかれないようにぬぐって私は顔をあげる。 「誰にでも、内緒にしたいことってあるし……それは先生のプライベートな事だから」 「それもそうだね。あーあ、卒業したら志麻っちからも疎遠になっちゃうし……寂しくなるね」 「うん」  エリサは腕時計をちらっと見た。彼氏からのクリスマスプレゼントと言っていたそれは、まだ綺麗にピカピカと光っている。 「あ、やば。私もう帰るね」 「え? もうそんな時間」 「うん、片づけちゃおっか」 「いいよ、私しておくから。……次会うのは、卒業式だね」 「そっかー。そうだ、トーコって卒業祝賀会でる?」 「うん、チケット買ったし」 「よし、めっちゃ写真撮ろうよ。……なんか、大学の卒業式って、高校のときほど悲しくないかも。またいつでも会おうと思えば会えるしね」 「うん」  エリサを玄関まで見送る。パタンとドアが閉まったのと同時に、私の目から一粒の涙が零れ落ちていった。  紀一郎さんが誰かと寄り添うかもしれないことよりも、彼の頭の中から私という存在がなくなりそうなことの方が怖くて仕方がない。たとえ、それが彼が選んだことだとしても。  あっという間に、卒業式の日が来た。  もちろん、紀一郎さんと話をすることもできずに。着付けされた袴を脱いで、私は祝賀会のために用意したパステルグリーンのパーティードレスに着替える。隣ではエリサも同じように着替えていた。ポーチの中からアクセサリーを出して、耳にイヤリング、首には……もうずいぶん前に紀一郎さんからプレゼントされたネックレスをつけようとした。 「……あれ?」  これをつけるのは久しぶりだった、紀一郎さんと離れ離れになってから付けることはめっきり減ってしまい……そのせいか、いくら金具を爪の先でひっかけても上手く付けることができない。 「やってあげようか?」  私の不器用な仕草を見て、エリサがそう声をかけてきた。 「ううん、大丈夫。お手洗い行きたいから、そこでついでにやってくる」 「分かった。じゃあまた会場でね」  荷物をまとめて、パーティーバックとネックレスだけ手元に残しそれ以外はすべて、ホテルの受付にあるクロークに預けた。大きな荷物は小さな番号札になった。それもバックの中にしまい、とぼとぼと歩きだした。ガヤガヤとにぎやかな人ごみの中にも、彼の姿はない。  角を曲がり、ひと気の少ない廊下を進む。自動販売機のコーナーを超えて……その次は、もう使っている人もあまり見ない公衆電話の小さく暗い一画を通り過ぎようとしていた。
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