夏 ~いとしい我が家~

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 西野さんはお母さんが働いている病院で、数年前から働いている理学療法士だった。高校生の頃からずっとラグビーをやっていて、筋肉の着ぐるみを着ているかのように体がしっかりしている。  私のお父さんは、本を読むのが大好きな線の細い、運動とは無縁な人だった。お母さんに紹介された時、今度は随分丈夫そうな人を選んだんだなとどこか遠いところで考えていた。これなら、飲酒運転の車でも弾き飛ばしてしまいそうなくらい丈夫な。  そんな西野さんは、いつの間にかお母さんのことを好きになったらしい。きっかけは聞きたくなかったから、聞いていない。西野さんは話したそうにもじもじとしていたが、私は話をはぐらかし続けた。  お母さんは、付き合うつもりはなかったらしい。自分よりも少し年下で……まだまだ未来のある人だから、と断っていた。それなのに、いつの間にかお母さんは西野さんと付き合い始めていた。 「あ、桐子」 「何?」 「明日お墓参り行くけど、桐子も行くでしょ?」 「そりゃ、そのために帰ってきてるんだから。混んじゃうから、朝早く行くんでしょ?」 「もちろん、昔みたいにぐずぐず言わないでよ」 「しないよ、もう」  もう大人なんだから、と言いかけて口をつぐんだ。もう20歳を超えているけれど、私の何が「大人」なのか、考えても思い当たらなかった。  お父さんのお墓は、高台の墓地の、頂上にあった。お母さんの運転で途中花屋によってお供え用の花を買ってから、墓地に向かう。  お母さんが頻繁に墓参りしているおかげか雑草も一つもなく、私たちは軽く掃除をするだけで済んだ。夏の日差しを受けた墓石は、触れる度に皮膚が焼けそうなくらい熱くなっていた。  私は、その温度は好きだった。  冷たいはずの石が、まるで生きているように熱をその体に貯め込んでいるようで、それがここに眠っているお父さんの体温のようだった。  私が手を合わせている後ろで、叔父さんは懐かしむように町を望んでいる。 「……トーコは、兄さんになんて報告したの?」 「……学業成就、健康祈願」 「兄さんの墓は神社かよ」 「……叔父さんは?」 「『トーコに彼氏ができました』」  ニヤニヤと頬にいやらしい笑みを浮かべている叔父さんの脛を強く蹴ると、叔父さんは大きな悲鳴を上げた。しかし、それ以上の悲鳴が背後から聞こえた。その悲鳴が空に溶け込んだ後、振り返るとお母さんが大きな口を開けたまま立っている。そして、その動揺を隠さないままお母さんは言葉を続けた。 「桐子、あんた彼氏できたの?!」 「できましたよ、お義姉さん」 「だから、叔父さんうるさい、余計な事言わないでよ!」 「えー! お母さん知らないわよ! そんな、桐子も言ってくれたら良かったのに。どんな人?」  私がぐっと言葉を詰まらせているのを見て、私を追いつめていたはずの叔父さんは助け船を出す。 「大丈夫ですって、ちゃんとトーコを大事にしてくれてる人だから」 「へぇ~……そうだ! あんた、今度うちに連れてきてよ、彼氏!」 「いや、迷惑でしょ……こんな遠い所に」 「見てみたいなぁ、桐子の彼氏。ねえ、お父さん」  お母さんは、そう言ってまたお墓の前にしゃがみ込んだ。ここからは、二人の時間だ。  私と叔父さんは顔を見合わせて、少しだけ遠ざかる。  両親は、幼かった私から見ても仲のいい夫婦だった。もしお父さんが生きていたら、私はそれに鬱陶しさすら感じていたに違いない。 「叔父さんも、余計なことばっかり言って」  叔父さんは東屋に向かっていた、慌てて私もその背中を追い、文句を言う。 「いやあ? 義姉さんも、離れたところで一人暮らしの娘を心配してると思って。それに、本当の事しか言ってないからいいだろ」 「そうだけど……そうだけどさ」 「それに、俺は一番肝心なことは言ってないからな」 「それは、……私と紀一郎さんに歳が離れている事?」 「そう。それも、一回りも以上、一番大事な部分なんだからお前が直接言えよ。……それに、きっと、普通の親だったら怒鳴り散らしたいくらい嫌なことだと思うぜ。話す時は言葉選べよ」 「子どもいないくせに、適当なこと言って」 「何言ってんだ、お前は俺の子どもみたいなもんだよ。……でも、父親の代わりにはなれないけどな」 「お父さんの代わりなんていないよ」  その言葉は、まるでずっと準備をしていたようにスッと喉から飛び出してきた。  いつか、この言葉を誰かに伝える必要があると、ずっと考えていたせいだろう。  ただそれは、叔父さんに言うためのものではないことは分かっている。いつか来るその時までに、一度練習したかったのかもしれない。 「そうだよなぁ」  叔父さんは空を見上げ、私もそれに釣られるように空を仰ぐ。吹き込んでくる風は汗ばんだ肌を優しく撫でていった。 「でもさ」 「なあに?」 「お前が志麻さんと付き合い始めた時、俺てっきり、ついに桐子がファザコン拗らせたのかと思ったよ」 「……それ、いつか誰かに言われると思ってた」  日陰に入ると、まるで夏が終わったようにすっと冷え込んできた。私と叔父さんは顔を見合わせて笑ったのけれど、暗くて叔父さんの表情は分からない。きっと、叔父さんもそうに違いない。 「ねぇ、二人で何話してるの?」  手桶とひしゃく、そしてお供え物を抱えたお母さんが後ろに立っていた。叔父さんは慌てて手桶を受け取り、首を振った。 「何でも。お義姉さんはもういいの?」 「ええ。何か話したいことがあったらまた来るから」 「そっか」 「そうだ桐子、お祖母ちゃんち寄っていこうか。和三さんも実家に帰さないと」 「えー。ぐちぐち言われるだけだから嫌なんだよなあ。早く結婚しろとかなんとかさ」  ため息をついている叔父さんを見て、お母さんは大きな声で笑った。 「子どもの心配をするのは親の特権だから。桐子、帰りはあんた運転しな」 「えー、私、全然運転したことないから不安なんだけど」 「だからよ、いい加減慣れなさいって」 「分かったよ……ほら、鍵貸して」  クマのマスコットがついた鍵を、お母さんは私に渡す。それを受け取って、三人で連なって駐車場まで下っていった。  中腹まで来たところで、私は後ろを振り返った。  お父さんが亡くなって間もないころ、私はよく後ろを振り返っていたのを思い出す。そこに、お父さんがいるような気がしてならなかったのだ。  少し経ってから、もうそこにいないことに気付いた。お父さんはそんなところじゃなくて、私の中にちゃんといる。  それでも、底の見えない寂しさに襲われる夜もあった。  しかし、最近、膝を抱えて丸くなって眠る夜でも紀一郎さんが隣にいてくれていた。  そんな彼に、私は何が出来て、何をするべきなのだろうか?彼が私に求めていることは、果たしてできるのだろうか?  いつか、私はその答えを導き出す必要がある。理解はしているのに、私は今の日常から抜け出したくはなかった。
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