命に別条

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 それはさておき、少なくとも彼女の目には、野良犬がカツラをこれでもかと舐めまわすその姿が、災害救助犬が人間を助け出そうとする健気な風景に見えていたのである。バケツに視野を制限され、現場が詳細には見えていなかったという物理的障害も少なからずあるが、やはり「犬が人を助けている」という心温まる物語の力と、前夜に読んだ『おおきなかぶ』の影響力は甚大であった。  おかげで、どちらかといえばむしろかぶに近い質感であるはずの、禿げあがった男の頭部が彼女の視野に入り込むチャンスは残念ながら皆無であった。なぜならばそこらへんに転がっているおっさんの禿げ頭は、犬が人を助けるというこの美談にはいっさい必要がなかったからである。男はすぐ脇でずっと声をあげていたというのに。その頭にはかぶに負けず劣らず、リアルに少量の土さえ付着させていたというのに!  そうして主婦が勢いよく野良犬とカツラのハッピーセットを引っ張りあげると、まるでそれが何らかのスイッチであったかのように、頭上からさらに大量の何かが轟音とともに降り注いできた。さながら旧式和式便所のひもを、ずいと引っ張るような案配で。  だが降りかかってきたのは幸いなことにさらなる鉄骨ではなく、朝方には珍しいゲリラ豪雨であった。男はこんなときカツラをかぶってさえいたらなあと思い、犬はこの舐めまわしている物体でなんとか雨宿りできぬものかと思い、主婦はバケツをかぶっていて良かったと思った。  つまりいずれも、命に別条はなかったということになる。
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