そして溺れるすべを知る

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そして溺れるすべを知る

 見せる相手のいなくなったボトルをバックバーに戻し、稜は細く息を吐いた。  普通のバーならばラベルを見たり、酒にまつわる話も弾むところだが、『SM』と冠されるとそうもいかない。客の興味はうまい酒より、店のキャストや催しだ。 「きゃあっ」と色めき立ったソファ席を稜は冷めた目で見やる。先ほどまでこのカウンターにいた新規客が、歓声を上げたようだ。  金曜日のこの夜は、緊縛師の男がゲストだった。甘いマスクと声をした、やや名の知れた縄師。女性人気が高く、開催のたび客が絶えず来店する。  店にとってはありがたいが、個人的には好ましい人物ではなかった。縄の腕はそれなりでも独りよがりで横柄。そのうえ来訪すると毎回、客かキャストを連れ出す。それを知らない彼女たちは、今日も彼を囲って原色の声を上げる。  ここで働き始めた当初なら、あの輪の中に入って談笑し、牽制することもあった。しかし店側の誰もが黙認している現状で、とてもそんな気分にはなれなかった。  息がしづらい。次の客が来るまで、煙草に火をつけようか。  天井を仰いで逡巡したところでドアが開き、また一人女性客が訪れた。 「こんばんは」  彼女の発する落ち着いた声は、姦(かしま)しさの合間をぬって際立って聞こえた。  また来た。この一週間ですでに三度目だ。 「いらっしゃいませ」迎えの言葉がわずかに遅れて口をつく。  短期で通う客はいないこともないが、彼女はプレイには一切参加しなかった。縛られるでもなく、鞭を振るわれるでもなく、ソファに腰掛けショーや客たちを見ては時折上品に酒を口へ運ぶ。不思議とさまになるその挙動は印象的だった。  いまのフロアに彼女が馴染むのが想像できず、稜はカウンターの席を手で示す。 「おかけください」 「ありがとう」  彼女は形式的な礼をそうと感じさせない態度で告げ、稜の正面のスツールに座った。艶のある長いウェーブヘアが屈んだ瞬間ゆったりと揺れ、豊かな胸の上に落ちた。 「先日いらした時は」稜はおしぼりを広げて渡しながら記憶を辿る。「ハイランドでしたっけ。クライヌリッシュ十四年、飲まれてましたよね」 「まあ」彼女が大きな目を丸くし、「よく覚えていらっしゃいますね」と感心したように言う。 「ここでお酒を嗜まれる方はあまり多くないですから」 「蒸留酒が好きで。好みはキャプテン・モルガンとか、グレンリベットなの。おすすめあります?」  明るく尋ね、彼女はすっと背を伸ばす。稜も自然と姿勢を正し、好みそうな一本をバックバーから取った。 「こちらはいかがでしょう」  チョーカーを巻いた女の肖像画が描かれたラベルを披露するように傾けた。「クレメンタイン。優雅な甘みと香りが特徴のバーボンです」 「はじめて見るわ」彼女がまじまじと顔を寄せる。「じゃあこれを。ストレートでお願い」 「かしこまりました」  ボトルを彼女の前に据え、ひと嗅ぎしたテイスティンググラスを隣に置いた。  メジャーカップで正確に計って最後の一滴まで行儀よく移す。何気なく、何度となく行ってきた流れのひとつひとつに、彼女の目が注がれるのを感じた。観察でもするような熱い視線だ。見られるのは慣れているが、いつもより少しやりづらい。  どうぞ、と彼女の中心にグラスを置く。  彼女は礼を述べ、唇の先端を濡らすように浅く傾けた。ほうっと色っぽい息がもれる。思わず見とれそうになるほど、艶のある表情だった。 「おいしい。バニラみたいで好きな味だわ」 「よかった」  稜は笑みを返し、メジャーをすすいだ。彼女の視線が離れた隙に、なかばくせで顔を盗み見る。  整った素顔の上に丁寧な気遣いを施しているのが窺えた。頬に落ちるまつげの影や、目を伏せた時に淡く光るまぶた、唇に乗った控えめな赤、薄く肌を覆うファンデーション。どこにも手抜きがない。稜とさほど年も離れていなさそうなのに、佇まいは堂々として貫禄がある。  職は、と考え出したところで、水を差すような甲高い声が店の奥から上がった。 「ずいぶんと楽しそうね」細い首を伸ばして彼女がそちらを見やる。 「はい。緊縛師の方が来ていて」 「すぐ戻るから、ちょっと近くで見てきていいかしら?」 「もちろん」  彼女はスツールから降り、フロア全体を見渡せるあたりで足を止めた。その肩の向こう、ほぼ下着になった客が、胸縄を掛けられきゃあきゃあと騒いでいる。  今夜のイベントはSNSやネットで告知していたから、彼女もあの男を目当てに来たのかもしれない。それも純粋な客としてではなく、夜の店の関係者として。  しばらくして彼女はきびすを返し、席に戻るなり稜に尋ねた。 「彼、佐渡(さわたり)さん、よくいらっしゃるの?」 「何度かお招きしています。彼と面識が?」 「映像作品でだけ。でも佐渡さんってより……、江古田(えごた)さん、っていうか」  すぐに漢字と音が頭で一致した。サワタリ。サド。ではなくエゴ。 「なるほど。言えてる」 「やだ、バレちゃった?」  いたずらが露呈した子どものように、彼女は白い歯を覗かせた。 「僕もそう思ってたので、なんとなくわかっただけです」 「いいの? そんなこと正直に言って」 「ここだけの話にしておいてくださると助かります」  秘密の共有を約束し、互いにくすくすと笑い合う。笑みを収めたあとのうっとりとした表情が、無理なくこなれている。見ていたくなる、と思ったとき、「稜」と裏手でキャストの声がした。 「はい」振り返るとミストレスがカーテンから顔を覗かせている。 「指名。あの常連の子。佐渡さんに縛ってもらえないからってご機嫌斜めでさ」  フロアを見れば盛り上がる輪から外れて一人、キャミソール姿で恨めしそうに見つめる女がいる。  厄介な客かもしんないけど、佐渡も好き嫌い激しすぎなんだよ。小声で愚痴っぽく言い、彼女は引っ込んだ。  佐渡の気持ちもわかるがこれも仕事だ。受け取れるバックを頭の中で今日の給料に加算し、カウンターへと向き直る。 「すみません。呼ばれてしまって」 「どうぞ。あ、行っちゃう前にお水いただいても?」 「かしこまりました。氷は」 「いらないわ」  ロンググラスに水を注ぐあいだ、彼女は唇の前で両手を組んで、まじろぎもせずに稜を見つめてきた。傍らのバーボンはまったく減っていない。 「あなたも指名できたのね」 「はい。縛れるので」 「終わったらまたここに戻ってくる?」  何を意図してそれを言ったのか底が見えず、しかしごまかす理由もなくて、遅れて再び「はい」とグラスを差し出した。 そして溺れるすべを知る ココマデ
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