457人が本棚に入れています
本棚に追加
/4ページ
そして溺れるすべを知る
見せる相手のいなくなったボトルをバックバーに戻し、稜は細く息を吐いた。
普通のバーならばラベルを見たり、酒にまつわる話も弾むところだが、『SM』と冠されるとそうもいかない。客の興味はうまい酒より、店のキャストや催しだ。
「きゃあっ」と色めき立ったソファ席を稜は冷めた目で見やる。先ほどまでこのカウンターにいた新規客が、歓声を上げたようだ。
金曜日のこの夜は、緊縛師の男がゲストだった。甘いマスクと声をした、やや名の知れた縄師。女性人気が高く、開催のたび客が絶えず来店する。
店にとってはありがたいが、個人的には好ましい人物ではなかった。縄の腕はそれなりでも独りよがりで横柄。そのうえ来訪すると毎回、客かキャストを連れ出す。それを知らない彼女たちは、今日も彼を囲って原色の声を上げる。
ここで働き始めた当初なら、あの輪の中に入って談笑し、牽制することもあった。しかし店側の誰もが黙認している現状で、とてもそんな気分にはなれなかった。
息がしづらい。次の客が来るまで、煙草に火をつけようか。
天井を仰いで逡巡したところでドアが開き、また一人女性客が訪れた。
「こんばんは」
彼女の発する落ち着いた声は、姦(かしま)しさの合間をぬって際立って聞こえた。
また来た。この一週間ですでに三度目だ。
「いらっしゃいませ」迎えの言葉がわずかに遅れて口をつく。
短期で通う客はいないこともないが、彼女はプレイには一切参加しなかった。縛られるでもなく、鞭を振るわれるでもなく、ソファに腰掛けショーや客たちを見ては時折上品に酒を口へ運ぶ。不思議とさまになるその挙動は印象的だった。
いまのフロアに彼女が馴染むのが想像できず、稜はカウンターの席を手で示す。
「おかけください」
「ありがとう」
彼女は形式的な礼をそうと感じさせない態度で告げ、稜の正面のスツールに座った。艶のある長いウェーブヘアが屈んだ瞬間ゆったりと揺れ、豊かな胸の上に落ちた。
「先日いらした時は」稜はおしぼりを広げて渡しながら記憶を辿る。「ハイランドでしたっけ。クライヌリッシュ十四年、飲まれてましたよね」
「まあ」彼女が大きな目を丸くし、「よく覚えていらっしゃいますね」と感心したように言う。
「ここでお酒を嗜まれる方はあまり多くないですから」
「蒸留酒が好きで。好みはキャプテン・モルガンとか、グレンリベットなの。おすすめあります?」
明るく尋ね、彼女はすっと背を伸ばす。稜も自然と姿勢を正し、好みそうな一本をバックバーから取った。
「こちらはいかがでしょう」
チョーカーを巻いた女の肖像画が描かれたラベルを披露するように傾けた。「クレメンタイン。優雅な甘みと香りが特徴のバーボンです」
「はじめて見るわ」彼女がまじまじと顔を寄せる。「じゃあこれを。ストレートでお願い」
「かしこまりました」
ボトルを彼女の前に据え、ひと嗅ぎしたテイスティンググラスを隣に置いた。
メジャーカップで正確に計って最後の一滴まで行儀よく移す。何気なく、何度となく行ってきた流れのひとつひとつに、彼女の目が注がれるのを感じた。観察でもするような熱い視線だ。見られるのは慣れているが、いつもより少しやりづらい。
どうぞ、と彼女の中心にグラスを置く。
彼女は礼を述べ、唇の先端を濡らすように浅く傾けた。ほうっと色っぽい息がもれる。思わず見とれそうになるほど、艶のある表情だった。
「おいしい。バニラみたいで好きな味だわ」
「よかった」
稜は笑みを返し、メジャーをすすいだ。彼女の視線が離れた隙に、なかばくせで顔を盗み見る。
整った素顔の上に丁寧な気遣いを施しているのが窺えた。頬に落ちるまつげの影や、目を伏せた時に淡く光るまぶた、唇に乗った控えめな赤、薄く肌を覆うファンデーション。どこにも手抜きがない。稜とさほど年も離れていなさそうなのに、佇まいは堂々として貫禄がある。
職は、と考え出したところで、水を差すような甲高い声が店の奥から上がった。
「ずいぶんと楽しそうね」細い首を伸ばして彼女がそちらを見やる。
「はい。緊縛師の方が来ていて」
「すぐ戻るから、ちょっと近くで見てきていいかしら?」
「もちろん」
彼女はスツールから降り、フロア全体を見渡せるあたりで足を止めた。その肩の向こう、ほぼ下着になった客が、胸縄を掛けられきゃあきゃあと騒いでいる。
今夜のイベントはSNSやネットで告知していたから、彼女もあの男を目当てに来たのかもしれない。それも純粋な客としてではなく、夜の店の関係者として。
しばらくして彼女はきびすを返し、席に戻るなり稜に尋ねた。
「彼、佐渡(さわたり)さん、よくいらっしゃるの?」
「何度かお招きしています。彼と面識が?」
「映像作品でだけ。でも佐渡さんってより……、江古田(えごた)さん、っていうか」
すぐに漢字と音が頭で一致した。サワタリ。サド。ではなくエゴ。
「なるほど。言えてる」
「やだ、バレちゃった?」
いたずらが露呈した子どものように、彼女は白い歯を覗かせた。
「僕もそう思ってたので、なんとなくわかっただけです」
「いいの? そんなこと正直に言って」
「ここだけの話にしておいてくださると助かります」
秘密の共有を約束し、互いにくすくすと笑い合う。笑みを収めたあとのうっとりとした表情が、無理なくこなれている。見ていたくなる、と思ったとき、「稜」と裏手でキャストの声がした。
「はい」振り返るとミストレスがカーテンから顔を覗かせている。
「指名。あの常連の子。佐渡さんに縛ってもらえないからってご機嫌斜めでさ」
フロアを見れば盛り上がる輪から外れて一人、キャミソール姿で恨めしそうに見つめる女がいる。
厄介な客かもしんないけど、佐渡も好き嫌い激しすぎなんだよ。小声で愚痴っぽく言い、彼女は引っ込んだ。
佐渡の気持ちもわかるがこれも仕事だ。受け取れるバックを頭の中で今日の給料に加算し、カウンターへと向き直る。
「すみません。呼ばれてしまって」
「どうぞ。あ、行っちゃう前にお水いただいても?」
「かしこまりました。氷は」
「いらないわ」
ロンググラスに水を注ぐあいだ、彼女は唇の前で両手を組んで、まじろぎもせずに稜を見つめてきた。傍らのバーボンはまったく減っていない。
「あなたも指名できたのね」
「はい。縛れるので」
「終わったらまたここに戻ってくる?」
何を意図してそれを言ったのか底が見えず、しかしごまかす理由もなくて、遅れて再び「はい」とグラスを差し出した。
そして溺れるすべを知る
ココマデ
最初のコメントを投稿しよう!