いま、ふたり、海の底

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いま、ふたり、海の底

 雨の日の歌舞伎町はお盆過ぎの海に似ている。生臭くも甘い匂いがどこからともなく漂い、たくさんのビニール傘が群れたくらげのようにふわふわ揺れる。  じゃあ自分は、と結衣子は目線を上にやった。赤の傘はさながら海面に浮かぶウキみたいだ。あるいは、うっかり海に出てしまった金魚かもしれない。通学の乗り換えで駅の外には出ないし、出たとして行くのはだいたいホテルで、繁華街は避けて通る。だから道を間違えながらやっとビルを見つけたとき、思わず肩で息を吐いた。  時間がない。ギリギリだ。  赤いエナメルパンプスで水たまりを蹴散らし中へ入る。壁のボードにあるビル名とテナント名は、ホームページで何度も確認したそれで間違いない。閉じた傘の柄をきつく握り、結衣子はエレベーターホールへ足を踏み入れた。  目的の階に上がると、すぐ目の前に、ハイヒールと黒猫が描かれた重たそうな扉がある。店名が書かれた看板には、『フェティッシュバー』の文字が踊っていた。  女性歓迎! お一人様でも気軽に来られる場所です。  サイトの説明文を真に受けたわけじゃないけれど、どこがと悪態をつきたくなる程度には緊張していた。こんなの全然気軽じゃない。大学の教室や学食で一人浮いているほうがずっといい。  でも、ようやく決心がついたのだ。これを逃せば、もう二度と来ない気がする。  結衣子は大きく深呼吸をし、思い切って扉を押し開けた。そこで「え」と固まった。  入り口はほの暗く、二歩も進めば壁だった。その右手がフロアなのか声も漏れ入る光もあるが、迎える者はいない。まるで洞窟だ。意気込みが完全に空回り、ノブを握った手から力が抜けて左半身に重みがのし掛かる。  一気に心細くなった。せめてともに来ることができるような距離感の友人や恋人がいたらよかった。このまま後ずさりしてしまおうか、とよぎった頃、ぱっと頭上の照明が灯り、華奢な靴音が人影とともに近づいた。 「いらっしゃいませ、お待たせしました」  現れた女性の出で立ちに、結衣子は息を飲んだ。  梅雨だというのにゆがみひとつない長い黒髪、上品な光沢を跳ね返す黒いコルセットに窮屈そうに収まる胸、ウエストはマネキンよりも細くくびれ、それでいてハイレグから覗く腰はこぼれんばかりのボリュームがある。コスプレなんてちゃちなものとは一線を画す、完璧なボンデージ姿だ。 「ごめんなさい、ライト間違って落としてたみたいで」つま先立ちみたいなハイヒールを鳴らし、彼女は笑みを浮かべて結衣子に歩み寄った。「一名様ですね?」  はじめてまみえた女王様(ミストレス)は、数十秒前の緊張と落胆を忘れさせるほど圧倒的だった。気だるげな親しみがあるのに、気高くて近寄りがたい。今まで出会った誰とも違う、濃密な存在感がある。月下美人が人間になったらこんな姿だろうか。 「……はい」声を絞り出し、窺う。「だいじょうぶ、ですよね?」 「もちろん。若いお嬢さんが来てくれてうれしい。でも念のため、身分証の確認よろしいですか?」  二十歳未満は入店できない。免許証を見せると、彼女は長いまつげをばさばさと揺らし、「二十一かしら」とほほ笑んだ。 「もうすぐ緊縛ショーが始まるので、ここでドリンクをお伺いしますね」  見せられたメニューからオレンジジュースを選んだ。ここに来た一番の目的は、そのショーだ。  床も壁も朱に染まった店内は、十名ほどいる客たちのおしゃべりで静かにざわめいていた。同年代らしき者は誰もいない。あまり広くもないから、もくもくと押し寄せる煙草のにおいは諦めるしかない。苦手だけど、少し経てば慣れるだろう。  対角で半分に切られたような檻の正面の席を案内され、丸椅子に浅く腰掛けた。  その檻の一角に目をやる。いったいどんな用途で使い分けるのか、見当もつかない種類の鞭や拘束具が、ひしめくように飾られている。拷問部屋さながらに、束ねられた麻縄も、檻の格子にいくつもぶら下がっていた。  ぜんぶ本物、だ。  写真や画面でしか見たことのない、だけど想像では何度となく自分を責めた、本物の道具たち。触れられる、ともすれば使ってもらえる場所に来たのだと実感した途端、耳の後ろあたりが熱を持った。  やがて戻ってきたミストレスが、お待たせしましたとオレンジジュースをテーブルに置いた。礼ひとつ言うにもまごついていると、 「あら?」と彼女が足元に向かって声を落とす。「かわいいパンプス」  やわらいだ目の先を辿って結衣子も足を見下ろした。  女王様が忌憚なく人を褒めるなんて、気遣いだとしても少し意外だった。ラウンドトゥの先をぱたっと上下させ、「お気に入りなんです」と浮かれ気味に言う。 「うん、とっても似合ってる。異人さんに連れて行かれないようにしなくちゃね」  去り際に囁かれたいたずらっぽい声が、そばだつ感情を煽るように撫でた。  いっそ連れて行ってほしい。誰だって構わない。後ろ黒く蝕み続けるこの願望を叶えてくれるなら。  ベージュのミニスカートを引っ張るように握った。その時だった。  鷲の鳴き声に似た笛の音を合図に、店内が薄暗くなる。BGMが地を這うとともに、場の空気の流れが変化したのを結衣子は感じた。そこへ縄を持って現れたのは、結衣子と変わらぬ年頃の、上背のある男だった。 いま、ふたり、海の底 ココマデ
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