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ほどける
「今日はご参加いただきありがとうございました」
受講者たちに向かって正座になった遥香は、やっと終われることに心底安堵した。
「次回の緊縛講習は来週土曜日、ここ691で今日と同じ、十八時からやります。もっと学びたいと思ったら、ぜひまた来てください」
お疲れさまでした、と締めの言葉を述べても、カウンターからの視線は離れない。緊縛の師匠、瑛二の視線だ。あの力強く底深い、猛禽類さながらの獲物を狙う目。
一年半もの不在ののち突然現れ、スツールにどっかりと腰を据えて一時間あまりの講習をずっと見られていた。居心地が悪いどころじゃない。左利きの人向けに留めを教えようとして一緒になってこんがらがったときは、生きた心地さえしなかった。
直前に電話までしていたというのに、本当に意地が悪い。この輪の中に入って口出しされるほうがいくらかマシだった。こんな緊張感、はじめてここで講師を務めたとき以来かもしれない。
貸した縄を返してもらっていると、最後の一人が「ルカさん」と話しかけてきた。気の強そうな目をした、ショートカットの迫力美人だ。一番熱心な受講者で好印象だった。
遥香は「はい」と笑みを浮かべる。「なにか質問ですか?」
「どのくらい習えば縛れるようになりますか?」
彼女が食い気味で尋ねる。
どのくらい。たびたび訊かれるが、これに具体的な年月を答えられる緊縛師は果たしているだろうか。瑛二はもちろんのこと、結衣子や稜だって明言はしまい。どれだけ練習したらピアノが弾けるようになるか、と訊かれるのと同じだ。
――でも努力次第って言っちゃうと、みんなやる気なくしちゃうからぁ。
結衣子の言葉を思い出す。基準となる課程を示してあげたらいいわ。
「今日やった三点留めなら、毎週習ってひと月。手の覚えにもよりますけど」
「ひと月……」
ですよね、やっぱどうしても、そのくらいはかかっちゃうよなあ……。うーん、と唸る彼女の手を、受け手を務めたポニーテールの女の子が握った。
かつて自分が当時の恋人にしたこと、瑛二に言われたことが蘇ってくる。
目の前の人を心から愛して抱きしめる。それは自分の中で、縄を握る時の心得として、ポリシーと同じくらい大切なものとなっている。
彼女たちならきっと大丈夫だ。自分の二の舞にはならないだろう。
「少し待っててください。差し上げられる練習用の縄、持ってきますね」
散らかった縄もそのままに、バックヤードのバッグを取って戻る。なめして間もない二メートルのそれを、遥香はショートの彼女へ渡した。
「これでまず本結びをマスターしてみましょうか。目をつぶってもできるようになるまで。来週も参加されますか?」
「はい」
「じゃあ三点留めはそのときにまた。もし練習したかったら、ここや近くにあるフェティッシュバーの8 Knotとか、プロが見ている場所がいいかも」
プロ、とショートの彼女が呟いた。遥香はうなずく。
「ちょうどいま緊縛写真集が手元にあるんですけど、見てみます?」
二人が顔を見合わせ、肩を乗り出した。
瑛二のそれは、まさにプロの仕事の結晶だ。渡すと彼女たちはまず表紙に見入り、ページを捲った。瞳が変わる。
二人は口に、万華鏡を覗く子どものような小さい闇を作り、ゆっくりと先を進めた。
うわ、すご、とちらちら声がもれるたび、遥香の口角も一ミリずつ上がる。最後のページ、近影に載る瑛二をさし、「私の師匠」とこっそり告げた。「すご!」と声を揃えた二人の目がまぶしくて、すぐそこに本人がいることは黙っておく。
帰る彼女たちを見送り、ステージを元通りに戻して瑛二を見やった。言ってやりたいことはいくらでもある。どんな文句がいいかカウンターへ向かいながら考えていると、瑛二が手を挙げた。
「よう」
軽やかな声と笑顔は、不在の月日があったことなどまるで感じさせない。
懐かしさを覚えた自分がバカみたいだ。驚かされていら立ったのも、会えてうれしいと思ってしまったのも、ぜんぶぜんぶ。それというのも、そっちがなにも教えてくれないから。
眉間に次第に力が入り、遥香は瑛二に詰め寄った。
「っなーにが『よう』、よ!? あのさ、意味わかんないんだけど! なんでなんも言わないわけ!? 直前に電話してたじゃん! これまでもそう、家に帰ってたりはするのに置き手紙ひとつありゃしないし、バレンタインもなにアレ――」
「タケ、ビールおかわり」
話の途中で、瑛二がバーテンダーのタケルに向かって空のグラスを振り、立てた親指で遥香を差した。「あとこいつ黙らせる強いのなんか出してやって」
「はあ? 文句言い終わるまで黙んない! いきなり、ほんといっきなり現れてさ、それも講習前の大事な説明中だよ!? も、心臓止まるかと思っ――」
「だーもーうっせえな。タケ、やっぱ酒よりギャグボールだ」
「はあぁぁ!? なに言ってんのバカじゃないの、ほんっとサイッテー!」
写真集を振りかぶる。バンッと音が上がったが、受け止めたのは手のひらだ。とん、と軽く押し返された先で、瑛二が挑発的に笑っている。ふいに耳のほうまで熱くなってくる。遥香は鼻息を荒げて目を逸らし、スツールにとすんと腰を下ろした。さりげなく裏返した写真集をカウンターに伏せる。
「おいルカ。お前、俺の写真集で人を叩こうとすんじゃねえよ」
「でもこれは私のものだもん!」
「ふたりともうるさいよ」カウンター越しに、タケルが遥香へおしぼりを渡した。「ルカちゃん、それ俺も見たいからあんま汚さないでね」
「タケさんもなんか言ってやってよもう! この人ほんとひどいんだから」
「俺もビビった。昔っからさんっざん言ってんのに変わんないからどーしょもないよ。瑛二さんビールね、ルカちゃんは?」
「おお、お前、なんか飲むなら奢るぞ」
瑛二が顎をしゃくる。
彼が不在の一年半のあいだ、掃除し続けた部屋の埃と反比例してたまった不満が、それでうやむやにされそうな気がしてならない。遥香はぶすっと頬を膨らませ、顔を背けた。
「なあ、機嫌直せって」
さらに限界まで首を捻る。ハプニングバーであるここは隣り合う椅子が近いから、少しでも距離を取る。そう簡単に折れてなんかやるか、と心に決めた矢先、
「遥香」
心臓がどくっと跳ねる。背もたれに手が置かれ、体温が近づいた。と思ったら、くるんとスツールが回され膝同士が触れる。目が合った。真剣なまなざしを前にして、遥香はぐっと息を詰める。
ずるい。
「悪いともありがたいとも思ってるから、とりあえず労わせてくれ。弟子のお前が緊縛師として元気に成長してるの見れて、俺だってうれしいんだ」
本当にずるい。こうしてまた、彼の世界に連れていかれる。足がもつれて、感情ごと絡まって、捕まってしまう。
「……タケさん」遥香は顔を正面に戻し、真顔で言った。「シャンパンあります?」
「うげっ、ちょ、おまっ――」
「お、ベルエポックなら。七万。入れる?」タケルの手には早くも伝票が握られている。瑛二は眉根を寄せて素早く首を振った。
「いややめろお前マジやめ……、っつかそんな現金持ってるわきゃねえだろうが」
「ツケでもいいよ」
「よかねえわ! おいルカ、せめてあの辺のウイスキーにしとけ。なっ」
瑛二が遥香を窺いながらバックバーを指差した。かっこ悪、とタケルが呟く。
かっこ悪い。こういうところは格別にかっこ悪い。とはいえ実際二つ返事で受け入れられてもいやだな、とも思った。仕方がないからビールを頼む。
離れていたあいだ、交わした言葉は多くない。苦情はすらすら出てきたが、ちゃんと話すことはできるだろうか。
並べて置かれたビールに手を伸ばすと、瑛二が「ん」とグラスを遥香へ傾けた。
「ただいま。遥香」
人の気も知らず穏やかに笑う。結衣子もきっと、そうやって揺さぶられたのだと今ならわかる。彼女も言っていた。『しょうがない』、と。
「……おかえりなさい。瑛二さん」
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